湖城流の一百零八
前回の記事で、船越義珍は一百零八の型を教授していたこと、また20歳の頃、久米村の湖城大禎に師事していたという口碑があることを紹介した。ただし船越先生の師事した期間が3ヶ月であった点を考慮すると、一百零八まで習えた可能性は低いとも述べた。しかし、そもそも湖城流には一百零八は伝承されていたのであろうか。藤原稜三『東大拳法家列伝選』(1998)に以下の文章がある。
また、藤原は『全日本空手道連盟・和道会創立60周年記念特集号 和道会』(1994)でも、以下のように述べている。
これらの逸話を信じるならば、一百零八は湖城再鏡から息子の嘉富の代までは伝承されていたことになる。
しかし、疑問もある。もし三木が湖城再鏡から一百零八を学んだのなら、どうしてそのことを『拳法概説』(1930)に書かなかったのであろうか。一百零八の権威は宮城長順と屋比久孟伝であると書いているが、再鏡の名を挙げていない。あるいは秘伝の型だから、型の公開も教えた事実そのものも他言無用と再鏡から念を押されたのであろうか。
湖城嘉富先生が一百零八の型を演武してみせたというのは、藤原が実際に目撃したことだから嘘ではないであろうが、しかしそれは本当に108の挙動からなる型だったのであろうか。先日の記事で紹介したように、数字型の数字はその型の挙動数を意味するものではないと、宮城長順は発言していた。
藤原の中国武術に関する知識は、今日の水準から見ると十分とは言えない。湖城流が蔡家拳云々とあるが、湖城流と中国の蔡家拳とは、血縁も技法の直接的な繋がりもないはずである。蔡姓をもつ人々は中国では500万人以上いる。
また戦前刊行の中国拳法書とは何であろうか。戦前出版された中国拳法の書物は数は極めて少なかったはずだが、出典が書かれていないので確認が困難である。どうも藤原は中国のオリジナルの一百零八は108挙動だったはずだという先入観があるようで、嘉富先生の型を見て、実際とは関係なくそう思い込んでしまったのではないであろうか。 撮影が禁止されていた状況も考慮しなければならない。
いずれにしろ、湖城流には一百零八の型が伝承されていたという証言は重要ではあるし、このテーマを探究した研究者は藤原稜三以外にはいない。それゆえ、彼が上記のことを書き残してくれたことは感謝されるべきであるし、その研究は顕彰されるべきであろう。
注 藤原稜三『東大拳法家列伝選』株式会社・創造、1998年、58頁。
出典
「湖城流の一百零八」(アメブロ、2021年10月24日)。