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湖城流の一百零八

前回の記事で、船越義珍は一百零八の型を教授していたこと、また20歳の頃、久米村の湖城大禎に師事していたという口碑があることを紹介した。ただし船越先生の師事した期間が3ヶ月であった点を考慮すると、一百零八まで習えた可能性は低いとも述べた。しかし、そもそも湖城流には一百零八は伝承されていたのであろうか。藤原稜三『東大拳法家列伝選』(1998)に以下の文章がある。

明朝が倭寇対策の一環として、琉球島へ送致し福建人三十六姓(船工・船夫)の後裔で、蔡家拳(南派少林拳)の嫡流・湖城嘉富氏は『昭和5年の夏、二人の東大生がやってきて、父の再鏡に唐手術の形を教えてくれと懇願した。しかし、家伝拳法は門外不出の一子相伝と決まっているので、父の留守中ではあったが、「教えることはできない…」と私が断った。ところが翌日またやってきて、在宅中の父に直訴し、いくら断っても承知せず、内庭に坐り込んで動かぬゆえ、メシも食わぬ有様だったので、父の方が折れてしまった。「わざわざ東京からやってきたのだし、帝大生に悪人はおらんだろう…」ということになった。父は五高出身だと聞いたので、心が動いたのだと思う。私の五高受験を知っていたからだ。私は五高に失敗して、早稲田へ行くことになったけれども、それは翌年の話で、その夏は五高へ進む予定でいたのだ。父が帝大生に教授したのは「一百零八拳」という少林寺拳法の基本形で、それ以外の形は教えていない。初め妙な形を披露し、父を苦笑させたものの、なかなか筋が良く、覚えも早かったので、父は「さすがに帝大生は違う…」と誉めていた。家には五泊したと思う。帰り際に謝礼の封筒を置いていった。私が父の命令で那覇港まで送って帰ってきたら、父が「謝礼封筒の中身は百円だ…」と教えてくれた。当時中学教諭の月給は五十円だったから、父はその高額な謝礼に首を傾げていた…』と述懐している(注)。

(写真提供:Ben Pollock)

また、藤原は『全日本空手道連盟・和道会創立60周年記念特集号 和道会』(1994)でも、以下のように述べている。

戦前刊行の中国拳法書の中にある壱百零八拳を完璧に108ヶ演じきれるのは、湖城嘉富氏(早大出・86才)だけではないかと思う。これは1974年2月・再三にわたる懇願を渋々受け入れ、カメラの使用を禁じたうえ、自邸の庭で行ったものだが、その挙動が伝書通りの108ヶだったのである。沖縄県の湖城家は、南拳福建派の蔡肇功を始祖として、昌偉・以正・嘉宝・再鏡などの名手を生んだ直裔の家柄だが、戦前戦後を通じて、道場を構えたり、複数の門人を養成することを行わず、父子相伝を原則とし、それを貫き通しているのだという(40頁)。

これらの逸話を信じるならば、一百零八は湖城再鏡から息子の嘉富の代までは伝承されていたことになる。

しかし、疑問もある。もし三木が湖城再鏡から一百零八を学んだのなら、どうしてそのことを『拳法概説』(1930)に書かなかったのであろうか。一百零八の権威は宮城長順と屋比久孟伝であると書いているが、再鏡の名を挙げていない。あるいは秘伝の型だから、型の公開も教えた事実そのものも他言無用と再鏡から念を押されたのであろうか。

湖城嘉富先生が一百零八の型を演武してみせたというのは、藤原が実際に目撃したことだから嘘ではないであろうが、しかしそれは本当に108の挙動からなる型だったのであろうか。先日の記事で紹介したように、数字型の数字はその型の挙動数を意味するものではないと、宮城長順は発言していた。

藤原の中国武術に関する知識は、今日の水準から見ると十分とは言えない。湖城流が蔡家拳云々とあるが、湖城流と中国の蔡家拳とは、血縁も技法の直接的な繋がりもないはずである。蔡姓をもつ人々は中国では500万人以上いる。

また戦前刊行の中国拳法書とは何であろうか。戦前出版された中国拳法の書物は数は極めて少なかったはずだが、出典が書かれていないので確認が困難である。どうも藤原は中国のオリジナルの一百零八は108挙動だったはずだという先入観があるようで、嘉富先生の型を見て、実際とは関係なくそう思い込んでしまったのではないであろうか。 撮影が禁止されていた状況も考慮しなければならない。

いずれにしろ、湖城流には一百零八の型が伝承されていたという証言は重要ではあるし、このテーマを探究した研究者は藤原稜三以外にはいない。それゆえ、彼が上記のことを書き残してくれたことは感謝されるべきであるし、その研究は顕彰されるべきであろう。

注 藤原稜三『東大拳法家列伝選』株式会社・創造、1998年、58頁。

出典
「湖城流の一百零八」(アメブロ、2021年10月24日)。


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