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上地完文と本部朝茂

本部朝茂もとぶちょうも(1890-1945)は、本部朝勇の次男である。あだ名はトラジューと言った。上原清吉によると、虎の尾のように俊敏で強かったことからこのあだ名が付いたという。

もっとも沖縄には虎寿(とらじゅ)という童名ワラビナーがあったから、この童名と俊敏さが相まって成人してからもトラジューと呼ばれていたのではないかと筆者は考えている。おそらく本部朝基の童名が三良(サンラー、サンルー、三郎の意)だったことから、その身軽さと相まって猿(サーラー、サールー)と呼ばれるようになったのと同様の経緯だったのであろう。

朝茂は朝基と同じ頃大阪にやってきて、しばらく一緒に行動をともにしていた。朝基の道場でしばらくの間、師範代もしていたらしい。しかし、ほどなくして和歌山へ転居した。そこで上地完文(上地流開祖)と知り合うことになる。

上地完文と本部朝茂

当時和歌山には出稼ぎに来ていた沖縄県出身者が多数いた。彼らのなかには乱暴な者たちもおり、そうした連中は「和紡団」と呼ばれる暴力組織を結成して、善良な沖縄県人たちを脅迫してゆすったり、たかったり、暴力を働いていたという。この和紡団の悪行に立ち向かうことになったのが上地先生や本部朝茂であった。『精説沖縄空手道』(1977、以下上地本)に以下の記述がある。

こういう目に余る無法地帯と化した社会的実情に鑑み、当時、早稲田大学を卒業して超エリート的存在であった仲村文五郎氏(琉球三味線の大家でもあった)を中心とする有志数名は目には目、歯には歯的対症療法を採ることを決め、当時、和歌山市内やその近郊にいた上地完文(49歳武人)、本部朝茂(武人)、友寄隆優(29歲一義人)氏らに、和紡団鎮圧の適性行動をとるように懇請した。本部朝茂といえば、例の本部ザールーこと本部朝基の甥であるが、彼の父朝勇(本部流の元祖)に幼少の頃から武術を仕込まれ、武名を“虎寿"(トラジュー)とし、空手の達人として重きをなしていた(この虎寿と並称される人に現・本部流師家二代上原清吉範士がいる)。有志諸氏から和紡団鎮圧の依頼を受けた三氏がその対抗策を練ったのは昭和元年で、上地完文が中国拳法の伝授を決意する直前であった(第7章450頁)。

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友寄隆優ともよせりゅうゆうはのちに上地先生の弟子となる人で、その子息に友寄隆宏ともよせりゅうこう氏がいる。

仲村文五郎については詳しい経歴はわかっていないが、当時沖縄から東京の早稲田大学に入学するのは相当のエリートでかつ実家が裕福でなければ難しかったであろうから、沖縄では名士の家の出身だったのであろう。この仲村が、上地、朝茂、友寄の3人に和紡団鎮圧を依頼した。

興味深いの3氏の属性で上地先生と朝茂は「武人」、友寄氏は「義人」としているので、武術の心得のあるのは前二者で、友寄氏は修業前だから武術はまだ稽古していなかったのであろう。

さて、上記3人は和紡団鎮圧を依頼されたが、結局彼らは直接行動するには至らなかった。上地本によると、のちに上地先生の弟子になる赤嶺嘉栄あかみねかえい等が鎮圧したという。

ちょうどその頃、後に上地完文の門人になり、その高弟に数えられた赤嶺嘉栄氏や玉村進氏らは和歌山に居合わせていた。この両氏は既に前章で述べた真栄里のタンメーこと真栄里蘭芳に拳術を学んだ赤嶺嘉享翁(嘉栄氏の叔父)にすでに二年余にわたって拳技を教えて貰っていた。義の熱情と血気に燃ゆるこの二人は、上地・本部・友寄の三氏が直接行動に出る前に、和紡団懐滅の行動をおこしていた。玉村進氏が立会う中で、当時すでに力士としても拳士としても名声をはせていた若干18歳の赤嶺嘉栄氏が、和紡団幹部5、6人を、売られた喧嘩を買うという形で、次ぎ次ぎに物理的に処理していった。それから、暫らく鳴りをひそめていた和紡団は、時折り暴れることはあっても、大勢としてはおとなしくなったという(同上451頁)。

真栄里蘭芳めーざとうらんぽうは、湖城流4代、湖城再鏡が師事した武術家の一人である。赤嶺氏は戦後沖縄に戻り、沖縄角力の普及にも尽力した人物である。

さて、上地先生と本部朝茂人の間には、何らかの「武術交流」はあったのであろうか。上地先生が中国(清)から帰郷し、のちに和歌山に転居して大正15年(1926)に道場を開設するまでの期間は「沈黙の期間」とされ、その間の行動や武術修業の様子は詳しくはわかっていない。

以前筆者は、上地流の源流は中国の虎拳と言われるが、実際には両者は似ておらず、むしろ上地流の型は沖縄空手の型に似ており、上地先生が学んだという福州の湖城道場の型がベースになっているのではないかと考察した。

この湖城道場以外だと、上地先生が帰郷から和歌山での道場開設までの間に接点のあった空手家は本部朝茂以外はいないようである。白鶴拳の使い手、呉賢貴と交流があったいう説もあるが、信憑性は別にして、そもそも白鶴拳の套路と上地流の型は似ていない。

本部朝茂について、上地本には以下の記述もある。

当時、首里はムトゥブ虎寿とらじゅ、那覇はマーデーラヌタルーといわれるほど人口に膾炙した武人に本部朝茂と宮平政英みやひらせいえいがいた。本部は父朝勇(サールーこと朝基の兄)から上原清吉氏(本部流古武術協会会長)と共に免許皆伝を受けた達人で宮平は小林流の比嘉祐直氏(昭和47、48年度全沖縄空手道連盟会長)の兄弟子(師は喜友名翁)であり、マーデーラヌティージクンといわれ、その拳力無双ぶりをほしいままにした人である(同上477頁)。

「マーデラヌタルー」は沖縄方言で「宮平のタルー」を意味し、「タルー(樽)」は長男によく使われる童名で、日本名の太郎に相当する。「マーデラヌティージクン」は「宮平の拳」の意味である。上記では宮平は比嘉祐直氏の兄弟子とされているが、実際には師匠の一人である。宮平の師匠は松村宗棍の弟子の喜友名親雲上きゆなぺーちんである。

「当時」とは大正年間のことであるが、その頃首里では本部朝茂が、那覇では宮平政英がともに優秀な若手武術家として知られていたという。このことは従来の空手史ではあまり知られていない事実である。

上地先生は本部御殿の旧領地であった本部町の出身で、上原先生が和歌山にわたって本部御殿手を朝茂に伝授したとき、本部朝勇から上地先生宛の手紙を託されて手渡しした。その手紙に何が書かれてあったのか上原先生は知らなかったので、朝勇と上地先生とは面識があったのか、それとも息子の朝茂から上地先生の噂を聞いて興味をいだいて手紙を書いたのかは不明である。

上地流の源流調査にあたって、近年疑問視されている周子和説から離れて、湖城道場や本部朝茂といった沖縄空手との関係も調査することは有意義なことではないであろうか。本部朝茂が首里にいた頃から武術の「達人」として知られていたのなら、上地先生が彼の技に興味を示さなかったとは考え難い。

というのも、上原先生が上地先生に手紙を渡したとき、上地先生からしばらくとどまって稽古相手になるよう要請されたからである。優れた武人ならば当然他の武術家の技にも興味を示すのはありうることである。

道場を開設するまでの和歌山時代は上地先生にとって本当に「沈黙の期間」だったのであろうか。実際には本部朝茂との武術交流の口碑が戦後まで残っていたが、上地本で流派の「正史」を編纂するにあたって、上地完文の伝系を「周子和」に統一したいという意図が働き、朝茂との武術交流の話が省略された可能性はないであろうか。こうした「省略」と「統一」は他の流派の正史編纂の過程でも行われていたことが近年明らかとなってきており、周子和との関係が疑問視されている以上、考慮する必要があるように思われるのである。




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