見出し画像

湖城嘉宝と上地完文

上地完英監修『精説沖縄空手道』(1977、以下上地本)に、以下の文章がある。

松村宗棍と共に、冊封使に随伴してきた清国の武官イワーに、中国拳法の教示を仰いだものに久米の真栄里小のタンメー(武士メーザト)こと真栄里蘭芳(明治37年没)がおり、同じく久米の湖城のウメーこと湖城嘉宝(昭和3年没)がいる。
(中略)
特に、三代目湖城嘉宝はその若さと秀抜なる武才とその心意気をかわれ、イワーの勧めで中国福建省にわたり、そこで中国拳法を修め、後に免許皆伝となり、福州で道場を開いた。湖城嘉宝が身に修めた拳法の門派は不明だが、上地完文と同道した松田徳三郎が身をおいたところであるという事実に立脚すれば、上地流の先師周子和と深い関係にある門派であったことは容易に想像できる。今述べたように、湖城嘉宝は福州で道場をもった。日本人で中国で拳法道場を開いたのは湖城嘉宝をもってその嚆矢とすべきであろう。上地完文が湖城道場に入門した時の湖城嘉宝は31歳である。
(中略)
上地完文も松田徳三郎も福州の「湖城道場」に時日を同じくして入門した。時は明治29年の初夏である。(中略)ある日、上地完文は師範代の真壁ウドゥンに「上地のワタブター小」と冷笑され、小馬鹿にされ、まだ初歩的段階であるにもかかわらず、演武内容までも酷評された。その後、同じような冷笑と酷評が繰り返された。(中略)常日頃心よく思わない師範代の言動にそれ以上我慢できなくなり、上地完文はついに道場を飛び出した(398、399頁)。

まず、湖城嘉宝が湖城(くぐすく)のウメーと呼ばれていたということだが、ウメー(御前)は、御殿(王族)の当主に対する敬称で「殿下」のような意味である。たとえば、本部朝勇は本部のウメーと呼ばれた。しかし、湖城家は久米士族の名門とは言え、士族なのでウメーと呼ばれることはない。

また、湖城嘉宝はイワ―の勧めで中国へ渡って免許皆伝を得て、道場を開いたとある。上地完文が渡清したのは1896年(明治29)3月で(上地本、389頁)、湖城道場に入門したのは同年初夏だという。しかし、「湖城再鏡」の記事で紹介したように、嘉宝の娘・マカトが1896年11月に誕生している。

すると、同年初頭には嘉宝は沖縄にいたことになるわけで、果たして上地先生が入門した湖城道場の主は嘉宝だったのか疑問が残る。湖城家の別の人物が道場主だったか、あるいは上地先生の渡清や入門の時期がもっと後だった可能性もある。

松田徳三郎(1878 - 1931)は上地先生と同郷の本部村の生まれで、上地先生と一緒に中国へ渡った。湖城道場に入門し、上地先生が去ったあとも同道場に留まったが、その後の行動は不明という。上地先生と松田の拳門には主要な型が4つあり、最後の型は一百零八であった(上地本、432頁)。残りの3つの型は、三戦、十三、三十六で、松田はさらに剣術も学んだ。上地先生は修業時間が足りなかったこともあり、最後の一百零八は学ばなかった。上地先生が中国に13年間留まったのに対して、松田は5年間滞在して1901年(明治34)、25歳のときに帰国した。

しかし、上地先生が13年間滞在して、松田は5年間だったのに、修業時間が足りずに一百零八は学べなかったという主張はおかしくはないであろうか。また、松田は湖城道場で学んだが、他のところで学んだとは述べられていない。とすると、4つの型は湖城道場で学んだ可能性が高くなる。つまり湖城道場では、サンチン、セーサン、サンセーリュー、一百零八が教えられていたことになる。おそらく松田は湖城道場で「久米村手」を学んだのであろう。

上地本では、松田が学んだ湖城道場の型と上地先生の型は同じ門派の型であり、イワ―と周子和が同門であった可能性を示唆している。しかし、近年では上地先生が学んだ師匠は周子和ではないと否定する見解も出てきている(1)。

すると、上地流の型は中国人の師匠から学んだものではなく、松田同様、湖城道場で学んだものに中国での修業の成果を加味した可能性も考えられる。一百零八を学べなかったのは、途中で湖城道場を去ったからだとすると、辻褄は合う。

以前から上地流の型の名称や構成が剛柔流の同名の型との類似を指摘する見解がある。東恩納寛量が湖城大禎に師事したという口碑があること、また上地先生が福州の湖城道場で学んだという口碑があること。この二つを考慮すると、湖城家が剛柔流、上地流のそれぞれの型の源流に関係している可能性も考える必要がある。

ちなみに、上地先生を冷笑した真壁ウドゥンが誰かは不明だが、ウドゥンは御殿のことで、真壁御殿の当時の当主であったと考えられる。

(1)「開祖に教えた師・シューシャブとは?」『月刊空手道』2013年3月号、福昌堂、10頁。

参考文献:
上地完英監修『精説沖縄空手道』上地流空手道協会、1977年。

出典:
「湖城嘉宝と上地寛文」(アメブロ、2021年10月30日)。


いいなと思ったら応援しよう!