天文17年(1548)12月30日は長尾景虎(上杉謙信)が家督を継ぎ春日山城に入った日。黒田秀忠が春日山城へ攻め寄せる謀反を起こした。越後守護代の兄・晴景は病弱で越後の混乱を抑えられず国人たちは景虎を擁立。守護の上杉定実が調停することで景虎が晴景の養子となり家督移譲が実現した。
永禄2年(1559)6月29日は将軍足利義輝が長尾景虎(上杉謙信)に鉄砲火薬調合法の秘伝書「鉄放薬方並調合次第」を贈った日。上洛後に腫れ物を患って坂本(大津)にいた景虎への見舞い品。もともと大友宗麟より義輝へ献上された秘伝書。景虎は義輝の信任厚く頼りにされていたことがわかる。
弘治2年(1556)8月17日は長尾景虎(上杉謙信)が長尾政景らの説得で隠退を思いとどまる書状を書いた日。家臣同士や国衆の紛争調停で心身疲れ3月突然高野山へ向かう。一丸となり武田信玄と戦う必要あるのに…って何もかも嫌になったんだろうな。名将でも内輪の揉め事には苦労したということ。
おはようございます!今朝は長尾景虎(有名な戦国武将)と、水樹奈々さんという御方のお誕生日でもあります。景虎は西暦の日に入っています。今日という日の、お誕生日の皆さん、おめでとうございます!!
永禄3年(1560)9月19日は関白・近衛前久(前嗣)が越後の上杉謙信(長尾景虎)を訪ねるため京を出発した日。前久は謙信を助けるため関東にも下向した。信長とも親交を深め九州へ調停に赴いたり信長の武田攻めにも同行した。地方に赴き積極的に政治に関わろうとした行動力ある異色な公家。
弘治2年(1556)8月17日は長尾景虎(上杉謙信)が長尾政景らの説得で隠退を思いとどまる書状を書いた日。27歳の景虎は家臣同士や国衆の紛争調停で心身疲れ突然出奔し高野山へ向かった。こうした間も武田信玄に内通した大熊朝秀が謀反を起こすが復帰した景虎が早速これを迎撃し打ち破った。
天文17年(1548)12月30日は長尾景虎(上杉謙信)が兄・晴景の養子となり家督を継ぎ越後守護代として春日山城に入った日。病弱な晴景では越後の混乱を抑えられず景虎を擁立する国人たちに押され守護の上杉定実が調停。実力がなければ下からの圧で変わったのですね。このとき景虎19歳ですか