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できなかった、の裏側にあるもの。
「今日は子どもにずっとテレビを見せてしまった。」
「やらなきゃと思っていた掃除がひとつもできなかった。」
寝る前にあたまに浮かぶのは大抵『できなかった』。
でもその裏側には、かならず『できた」がある。
テレビを見てくれているあいだにゆっくり休めたかもしれないし、掃除をしなかったかわりにわが子の目をみられたかもしれない。
そんな『できた』を、ひとつひとつ拾っていくところからママの心のねっこは育
ママの役割って、きっとそんなに多くない。
「ママ、お友だちは押したらいけないんだって。」
「どーんってすると痛いからだよ。」
3歳、わが子の口からそんな言葉。
お、どうした?
押したか?怒られたか?ってあたまによぎるけど
「へ~!そうなんだね。誰に教えてもらったの?」って聞いてみる。先生だって。
「あなたが押しちゃったことあるの?」
ないんだって。
ふうん。よくわからない。
わからないけど、わからないなら深追いはしない。
わが子が
こんなことを思ってしまうわたしは、ダメな母親なのかもしれない。
わが子が生まれたその時から、
どれだけのママがその気持ちを抱えてきただろう。
小さくてかわいいわが子にたいして
『うるさい、めんどくさい、うっとおしい』
そんなふうに思いたいわけがないのに
意思とは関係なく思考はぐるぐるとめぐる。
わたしたちは、そんな自分を
もう十分すぎるくらい責めてきたはず。
だから、これからやることは
自分を責めたくなる自分を、みつめること。
責め
今まで、ママごめん。
保育参観に行ってきました。
最近「幼稚園行きたくない」と言うことがあって
体調不良で一週間おやすみしたもんね、とか
月曜だもんね、とか
「あるある」と思いながら
息子を送り出していたけれど
今日あさから幼稚園で過ごす息子をみていたら
「あぁ、こんなにがんばってるんだね」って
じわじわこみあげました。
おもちゃ使ってるのに
持っていかれちゃうこともあるよね。
先生の手をやっとつなげたけど
息子が、愛をふりまいている。
幼稚園のお友だちママに「だいすきだよ」と言ってみたり、「ぎゅー」とハグを求めてみたり。
(恥ずかしいからごめんね、と断られていてこっそり笑った。)
息子の愛が受けとめられようと、やんわり断られようとどちらでもよくて。
それを『伝えようとしている』ということが、息子の『愛すること、愛されること』へのあたり前さ、というかハードルの低さ、みたいなものを表している気がして、とてもおもしろくて、嬉しかっ
つらさを抜けるはじめの一歩は、「つらい」を見ること。
息子が幼稚園に入園してからの、この2ヶ月。
息子の荒れ模様に比例するようにわたしの心は大荒れ…というか『無』に近づいていった。
「幼稚園でがんばっていることを知ってるから」
「わたしは親子の心の育みを学んでいるから」
つらいと思っていることに気づかないふりをして『息子の大荒れを受けとめる、ママ』であろうとした。
ありたかった。
で、最近。気づかないふりをやめました。
「うるさー!」って笑い
4月から環境が変わるわが子へ。
入園や入学をひかえたわが子に、わたしたちママや
周りの大人たちがつい言いたくなる言葉がある。
『幼稚園たのしみだね』
『もうすぐ小学生だね』
半分は大人のウキウキした気持ち、
半分は子どもにはっぱをかけるような気持ちで。
でも、言わない。
『ママは自分に何を期待してる?』
『自分はそれに応えられる?』
そんなふうに子どもの人生に
多めの荷物を背負わせること、
わたしたちには簡単にできちゃ
おやこで心のねっこを育もう。 【5月21日(火)イベント 親と子のつどいの広場 Licoにて】
『おやこで心のねっこを育もう。』
「そのままのわたしが、
生きているだけですばらしい。」
それが心のねっこ、自己肯定感です。
イベントでは、
【Self love kids®︎】おやこで育む自己肯定感
4days 本講座より抜粋し
心をこめてお届けします。
わが子の寝顔を見ながら
ふと自分を責めてしまう。
今日のわたしの
ことばや表情は
わが子のこころに
何を残しただろうか。
愛する
ひとは、自分がしてもらったことしかできない。
わが子に優しくできないときも
まわりの人に求めたくなるときも
いつもいつでも
『わたしに優しくしてほしい』が
心の奥のほうにあるのだと思います。
でね、それが叶わないと
「わが子に優しくしたい」とか
「パパと仲良くいたい」とかはできない。
じゃあ誰がわたしに優しくしてくれるの?って言ったら
それはきっと、わたししかいない。
他の誰かがしてくれることもあるけど
「求めているのは
自己肯定感の育みをつたえる理由。
わが子が生まれてきてくれて、しあわせで大切で。
「このためにわたしがいたのかも」
なんて思えるくらいの感動を胸に抱いたはずなのに。
気がついたら、子どもと生きることは
『しんどい今をどう乗り切るか』になっていた。
こうすればいい。
誰かの話す明確な答えに心が揺さぶられて
「わたしはうまくできない。」
「ダメなママかもしれない。」
自分にがっかりして、
少しずつわたしがわたしを嫌いになっていく
わがままに見える子どものすがた。
2歳8ヶ月。
今日の息子は「ここで納豆ご飯が食べたい!」と
泣いて暴れたのち、ソファーから落ちました。笑
「ソファーはベタベタが落ちないから
椅子で食べてほしいよ。」という
母の心からの願いはゴタゴタの中で流され、
結局ソファーで納豆を食べる息子。
だから、イヤイヤ期ってやつは…って
途方にくれるときもある。
わがままに見えるわが子の姿に、
ため息つきたくなる日もある。
「納豆ご飯をソフ
伝えてよかったんだね。
ごはんでベタベタした手でふれられるのが
すごく苦手なんだなぁってやっと認められた。
保育士もしてて、ママにもなって、
息子をいつでも受けとめたいという理想もあって。
だからいつもイライラしながら
『やめて』ってひとことでごまかしていた。
でも、今朝はなんだか
「わたし本当に苦手なんだと思う。」って
自分で気持ちを受けとめてあげて
あなたがだいすき。だけど
ベタベタの手でさわられるのは苦手。
小言を一切やめる、と決めた朝。
息子の口から りんごが出た。
横向きに座って、口いっぱいにほおばっていた。
「前を向いて座ってね」
「一口ずつゆっくりね」
無意識に出かかったことば。
でも、のみこんだ。
この先、それを言ってくれる人はたくさんいるから。
わたしたちは先生でも厳しい世間の目でもない。
この子を産んで、今のところきっと
この子のことを世界で一番愛している人。
そんな存在から わが子に贈れるのは
小さな注意や叱