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うずまき飴に夢中🍭エッセイ

小さい頃にうずまきキャンディを親にねだって買ってもらったことがあるのって、どれくらいの人が共通で持っているの思い出なのだろう。

桃色・黄色・オレンジ・みどり・水色…と暖色から寒色までグラデーションに彩り豊かな色が繋がりうずまきみたいになっているあのお菓子は、ただ甘くておいしいだけじゃなく、見ると手に持ちたくなるような、カラフルなレインボーがぐるぐると渦になっていて、なんだ少し不思議で特別な気持ちにさせてくれた。小さい頃、味というよりも目にとってとりあえず魅力的だったあの飴の話をしたい。
今回は、そのうずまきキャンディを懐かしい気持ちになりながら食べたと言う内容ではなく、
あのうずまきキャンディを“作る工程”(の動画)に魅せられた、と言う話になる。

うずまきキャンディが作られる工程の面白さは、まとめると、ズバリ『次の工程が予測できない』ことにあると思った。
何となく、色んな色をつけた飴を最後は巻くんでしょ。くらいはイメージがつくのだが、実際観てみると「これは何をしている、どの段階の過程なのか?」が全く分からない。
その『分からなさ』に魅せられながらも淡々と工程が進んでいき、キャンディとして完成する最後まで動画を見終わっても、もう一度観たくなる“不思議さ”がそこにはあった。
「あとどれくらいの工程があるのだろう?」と、「もう完成したの?」の間が特に読めなかった。

一度は皆んなが虜になって目を輝かせるあの可愛いうずまきキャンディは、こんな道のりを経て商品としての顔と仕上がり、お菓子屋さんに並んでいたのか。と、“知らなかった完成までの過程”
を覗けて『このキャンディにもこんな歴史があったのか』と思わされた。

思い出や身近にあったものの歴史を知ってみることは、そのものへの背景を覗くことで、これまでよりひとつ奥まったところにある『今』と言う点に繋がる『線』を見れた感覚になれるのがいい。

これは人とのつながりの中でも発生していて、私は人と仲良くなる時に、相手の『好きなものの奥にあるもの』を言語化したくなる癖があって、それを言葉として提示すると驚かれたりすることがあるのだが、その人が抱えて来た過程や信念みたいなものが見える瞬間が単純に好きだからなのかと思う。その時のその人の表情や態度、考え方、などの「今」の姿は全て「そうなるまでの過程」のがあってのことなのだ。
その道のりを知ってみようとすることで、自分の人生にとって「活かせる何か」を得ることが目的なのではなく、私はただ、“そういった道のりを経て来た事実”や“その人の芯”にあるものを知れることが好きなのかも知れない。その過程エピソードなどは、直接的に活かせる何かというより、自分の中の肥やしのひとつとして、予測しないところで自然と活きていることが多い。全く予想外の視点からの声を聞けたり、『そう来ましたか』と自分だけでは到底たどりつけなかった見え方なんかを教えてくれて、視界や心の幅を広げては感性に彩りを与えてくれる。そういったことを重ねていくたび自分の感覚に、あのうずまきキャンディみたいな虹色の色合いが出てくる気がするのだ。感覚の器が大きくなると、特定の人を単色で見なくなる。表面的に人を限定して決めつけをしないことは、自分という生き物をも豊かにすることにつながっていく。

🔽まずは自分の奥に在るものと向き合ってみた話

🔽人生の『次の展開の分からなさ』について

記憶の中でお菓子の引き出しを開けてみると、祭りで買ったわたあめや、駄菓子屋さんで選んだラムネ菓子、散髪屋さんでおまけに貰ったガムやチューニングキャンディなんかも、そういった幼少期の思い出の中に生きている気がする。そしてそれらのお菓子作りの工程も、また覗いてみようかなと今思えている。

おいしいお菓子も人間も、変化の過程にこそ人生のドラマは在ると思った。


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