鳥生真夏

何度か文章を書いていて思ったのは、誰かのためではなく、自分のために書こうと思ったことです。良し悪しは私が決めて書きますが、それを読んで共感してくれる人がいると、それはそれで嬉しいです。いわゆる日記みたいな感覚だと思います。

鳥生真夏

何度か文章を書いていて思ったのは、誰かのためではなく、自分のために書こうと思ったことです。良し悪しは私が決めて書きますが、それを読んで共感してくれる人がいると、それはそれで嬉しいです。いわゆる日記みたいな感覚だと思います。

マガジン

  • 明日は自分を見るかもしれない

最近の記事

そんな私へ祝福の花束を

あれも嫌、これも嫌。この場から離れたいのに、離れられない。もっと自由に生きていきたい。もし、叶うのであれば、狩猟民族くらいの時代に遡り、その時代でいきたい。 現代は、更に混沌としていると考えており、多様化がすぎる。すべての他農家を抹消したい。あれにもこれにも、それぞれ気を使わなければならない。簡単な質問や冗談なんて全くできなくなってしまうようなそんな世の中。誰が楽しいのか。 私はこうやって、適当な文字を並べ、今思うことを書き下しているが、誰のためにというわけでもない。誰かが読

    • 明日また仕事なのに

      一日と、過ぎてく不快の蓄積に、いつ終わるのか、問いかける息。 最近知ったことではあるのだけど、日本の労働に関する法律では、しっかりと週に一日休みにしなさいと定められているようです。ただし、仕事に応じでは、最大で12日から24日まで連続勤務することが可能であるというのを見かけた。雇われる側としては、たまったもんじゃない。 私は、恵まれてる方だからか、完全週休二日であり、もちろん祝日もやすみだ。世の中には、その業務体型や従業員の少なさから、連続勤務を強いられることもある。辞める

      • スピと唱える知性のなさ

        口を開けば、スピスピと、知性のなさを光らす、人でなし。 日本人の文化的な真髄として、神道というものがある。所謂、神社に対する信仰である。世界中、唯一神もあれば、日本のように多くの神々が存在する考え方もある。これに対して、どれだけ信仰を持つかどうか、というのは個人的には関心のない要素だ。 信仰というのは、人としての拠り所をどこにしているのか、辛いとき、悲しいとき、頑張りたいときに、自己暗示を掛けたり、他責にしたいときに用いる対象だと考えている。信じなければ報われなかったり、教え

        • 今日も明日もドブ色世の中

          外に出るだけで、ベルトコンベアのように次から次へとドブのような色に染まってく。 カフェで少し本を読もうと思ってみても、私の敵は眠気ではない。もちろん本を読みに行くため、前日に疲弊していたりすると眠気に襲われることだってある。ときには的になる眠気だが、それをはるかに超えるほどの敵が現れる。 敵という表現は若干過剰かもしれない。どういう表現が適切かと言われても他の案が全く思い当たらない。足りない知識で引きずり出した表現でいえば、公害だろうか。 仲間内では冗談で歩く公害なんて表現で

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        • 明日は自分を見るかもしれない
          4本

        記事

          つきそうでつかない蛍光灯のように

          政治なども含めて、個人的にはより社会的実験を行うべきだと考えている。もちろん、私自身が被害者にならない前提ではあるが、世の中、何が正解で何が不正解かなんて、分からない。加えて、増えすぎた人に対して、共通理解と全会一致をもって物事を遂行し、実現することなど、不可能だろう。ひとつ屋根の下、一週間の大部分をともに過ごす、仕事を行う同僚の中でも、最終的にな着地には誰しもが恩恵を受けると自明のものであるにも関わらず、それを否定する管理職、意見ではなく否定のみを並べる役員、それらの大きな

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          社長や役員の穴と無能さ

          世には多くの雇われ社員たちがいる。そして、それを牛耳っているのは代表取締役や役員などである。会社という法人格である以上、みんなでがんばろう、などと簡単に済ませる話ではなく、羅針盤となる思想から実現しなければならない方策などの取り決め、役割を持った人間が先導し、社員それぞれに役割と業務が割り振られるのだ。 法人という言葉も個人的には好みの単語である。個人に対応して、法律上、会社に対応する架空の人格、それが法人。考えてみれば、人でもないのに人という文字が使われているのがおかしな話

          社長や役員の穴と無能さ

          みたらし団子な人生

          生き方、とはなんだろうと考えることが時たまある。 いつも楽しい日々を送ることができれば十分だろうが、人生というものは、山あり谷ありとよく言われる。良いこともあれば悪いこともある。幸運というのは、生まれながらにして決まっているというも耳にする。 ただ、生まれた直後に白紙である人生は、自分の好きなように彩ることはできるはずだ。幼少期には、串に一つの団子しか刺さっていない。甘酸っぱい学生の恋をしていれば、酸味のあるベリー系のタレかもしれないし、勉強にばかり時間を費やしていたら、少し

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          持続可能な対話

          サステナブル、サステナブルと、世の中はうるさい。持続可能性の前に人類はやらなければならないことがたくさんあるが、それから目をそらすためにわざと、サステナブルと唱えているように思える。 もちろん、多くの企業における、生産活動などにおいて、環境汚染が悪化の一途をたどるのは抑制すべき事実ではある。しかし、それとサステナブルとはまた別の話だ。世の中で、多くの人と足並みをそろえて解決していこうと夢物語を語っているすべての事象が、論点そのものをずらしている、そう感じている。 昨今の社会

          持続可能な対話

          仕事でも別れが悲しいこともある

          惜しい人をなくした。と言うと、勝手に殺すなと言われるかもしれないが、もう日常的に会わないのであれば、死んだも同然かもしれない。 多くの人が学校を卒業すると、一般社会において労働を強いられてしまう。私も大多数の一人であるため、一般的な企業に一般的な立場として、大多数と同じような人生を歩んでいる。労働に勤しむことは、生きるうえで非常に大切で、数千年前はこれが狩りであったり、稲作であったりした。それぞれは現代でも行われているが、いわゆる大自然の一部として、行っているわけではあるまい

          仕事でも別れが悲しいこともある

          列車と車窓とまどろみと

          窓の外を眺めると、木々に隠れてコンクリートが通り過ぎていく。いつも列車に乗ると不思議な気持ちになる。乗る瞬間というよりは、降りたくないという気持ちだろうか。ある特定の場所に入るとき、緊張を感じることもあるだろう。私にとって、列車は入るときより出る直前の気持ちが他と異なるように思う。 見た目としての構造は、飛行機や自動車などと異なり、長方形の立体だ。この造形も個人的には気に入っている。天井と床を除いたすべての範囲で窓ガラスが嵌められ、外を見ることができることも魅力的だろう。列

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          与えられる不快感と根源的な問題

          著しく困ることはなにか。不快な思いや気持ちが募ったことで、それを口に出すことが許されないことだろうか。実際に生きている家庭の中で、どれほどの言葉を噤み、飲み込んできたのか数えることも難しい。 我々の生きているこの世界では、思ったことをすぐに言葉にすることは、勧められていないだろう。その理由がわからない人もいるが、これがまた致命的だ。いわゆる空気を読むという感覚となるのだが、その場の状況を鑑みることなく、思ったことをすべて口にすることは、理性がないと思われることもあるだろう。

          与えられる不快感と根源的な問題

          止まらず転がり、止まるべきか考える

          人生百年時代とは、どこから流れてきた言葉なのだろうか。百年、一世紀、生まれたての子どもにとって見れば途方もない時間かもしれない。言い方次第では、オリンピックが25回分といえばなんとなく短く感じるかもしれない。 時間という概念自体が、人の作り出した、自然環境には存在しない概念であることから、この百年や一年一年の時の流れは、人によって異なる。個人的には、百年という期間は、長く、重く、深いものに感じてしまう。 私も生を受けて、そこそこ生きてきたが、生活のほとんどは仕事で、趣味や快楽

          止まらず転がり、止まるべきか考える

          音楽を聞いていて見えてないなかった

          時代だろうか、特に学生時代は授業と在宅時以外は、常にイヤホンを耳につけて、音楽を聞いていた。お気に入りのものから、知らない曲まで様々だ。曲の種類などを問いたいわけではない。 イヤホンで聞いていた音楽は、私にとって次第に煩わしいものとなっていった。端的に言うと、耳がつかれたということだろうか。耳がつかれただけではなく、長時間音楽を聞き続けることに価値を感じなくなってしまった。常にあり続けるものや、常に普遍なものというのは、いつか飽きが来るものだと思う。私にとってそれは、イヤホ

          音楽を聞いていて見えてないなかった

          9年と15年と

          もう、無垢な童であった小学生の頃なんて思い出すことができない。そういうと、周りは他人に興味ないからだよねと一蹴する。 失礼な、私でも他人に関心を持つことだってある。特に気持ちや考え方が一致するような他人には強く惹かれる。逆にそこまでの他人の場合、記憶の隅々にこびりつき、忘れることさえも難しくなる。 世間的に多い例であるかは不明だが、私の地域では、小学校から中学校に進学するとき、近隣の2つの小学校の生徒がそのまま同じ中学校に進学することになる。人によっては、中学校受験などもある

          いつも少し何かが

          いくつになっても、私たしはカフェに行ったり、外食をしたりと二人で外に出かけることがある。 冷めきった夫婦生活の知人から見ると、羨ましい光景と思われるが、気持ちとしては、惰性が半分、暇つぶしが半分というところだろうか。 しかし、今思えば、このように同じ時間を暇つぶしだったとしても過ごすことのできる相手は、稀なのかもしれない。その点は互いに感謝すべきところかもしれない。 幸せの種類にもたくさんあり、日頃から外出するため、互いに誕生日の贈り物などを壮大に扱うということはない。些細な

          いつも少し何かが

          あなたと、あなと

          気づいたらなくなっていることはこれまでも多くあった。恋仲や大親友、人だけでなく物も同様だ。 その時は常に穴が空いている感覚に陥る。虚無感というのが正しいかもしれない。このような気持ちを毎回感じないようにするためにはどうしたらいいのか。 いくつかの記事を眺めてみると、期待しないことというのが多く描かれていた。 いつからだろうか、サンタさんを信じなくなったのは。金銭的に豊かというわけではないが、誕生日やクリスマスには、1万円には届かないくらいのプレゼントを貰えてたと思う。幼少期の

          あなたと、あなと