社長や役員の穴と無能さ
世には多くの雇われ社員たちがいる。そして、それを牛耳っているのは代表取締役や役員などである。会社という法人格である以上、みんなでがんばろう、などと簡単に済ませる話ではなく、羅針盤となる思想から実現しなければならない方策などの取り決め、役割を持った人間が先導し、社員それぞれに役割と業務が割り振られるのだ。
法人という言葉も個人的には好みの単語である。個人に対応して、法律上、会社に対応する架空の人格、それが法人。考えてみれば、人でもないのに人という文字が使われているのがおかしな話ではあるが、会社が大きな一つの仕組みだとして捉えたとき、それは、一つの人格として見ることも叶うということだろうか。
そんな話はともかく、社長や役員などは、勤勉に思え、そして読書家である人も多く見受けられる。これを読んでいる皆の周りにいる方々はどうだろうか。もしかしたら私の周囲に限った話かもしれないが、読まれる本については、いささか偏りがある。基本的には、企業や社会論など、なんともタイトルだけで読む気力が失せてしまうような代物ばかりだ。何が楽しくて、そのような書籍を手にし、購入し、そしてわざわざ時間を掛けてまで読了するのだろうか。マゾでなければ感化しがたい行動だ。
彼らが、それらの本を読んでいる原動力としては、発言の真実味を帯びさせることや、他人に舐められないようにするための武装のようなものに思える。よく事業方針をきめるような会議の中でも、最近読んだであろう書籍の一部を雰囲気的に引用する。このときのしたり顔ときたら、心底破滅を望みたくなるものだ。このように役割のある人間が書籍を読んでいないかもしれないと感じている方も、もしかしたら、無駄に本の一部を不正確に引用している風景は見たことがある人がいるかもしれない。
そんな社長や役員だが、どうも社内の文章を読むことに限っては、その能力を有していないようだ。これは、研究すべき非常に面白い現象だと思っている。外部の書籍などのメディアについては、これでもかというほど表層的な理解と社内への普及を行っているが、社内から発生した部下の文章や資料、これらは一切脳内に残らない。記憶喪失どころの騒ぎではない。時たま、読了してくれる人もいるが、その場合も恐ろしい現象が起きる。提出し、ともに解説しつつ丁寧に伝え申したとき、彼らは理解と納得を示し、ときたま、称賛に値する言葉を解き放つ。この結果、通常であれば、どの人間も一安心し、肩の荷が下り、空にも舞い上がる気持ちになる人も少なくないだろう。提出後、これらの文章や資料が確定となったと認識し、実際の行動や実施に移すような場合、彼らは動き出す。なぜか、実施や開始の前日や当日、理解を示された日には一言も発しなかった言葉がそこには現れる。もしこのような事柄を読んで、ピンとこない方は幸運かもしれない。私の身の回りに起きたことをありのまま話すと、ある特定の活動を実施する前に上司や役員などに活動における文章や資料を提出する。ここまではよくある話だ。そして、会議などで何往復かしたあとに、確定し、実際の企業活動として行動が始まるわけだが、一度承認されたそれを覆すような事柄を活動の開始である最初の重要な日に語りかけてくるのだ。
二度表現を変えて書いてみたがどうだろうか。理解いただけただろうか。ほとんどホラーテイストであることも間違いないだろう。この現象に違和感を持たなかった方は危機感を持ったほうがいい。私の周りでも、それが役員だから、と放り投げるようなことを言う阿呆がいる。いいか、よく考えろ、それは人間ではない。
人々がこれまで栄枯盛衰を繰り返してきたが、少なくとも現代に至るまで常にほとんどの事柄は変化し進化してきた。それはなぜか、人々が互いに対話を繰り返し、理解と否定を繰り返し、最終的な着地として、その多くが理解を示せる成果を創出してきたからに他ならない。それなのになんだ、この役員らの態度や理解力の乏しさや。会社の繁栄はもちろん、対話が必須だろう。そして、その対話の中には、相手への理解や適切な情報伝達、意思表明を伴う。それができずして、人の上を得た彼らは果たして人と呼べるだろうか。
先ほど述べた事業活動における、少々思慮を欠く、後天的な役員らの指摘については、実施後にでも緩やかに変更したり、時には、変更すると伝えつつ完全に無視するという手法も体験したことがある方もいるだろう。私は、指摘を了承し、変更すると言いつつ、変更しない手段を講じる。本質的には何も講じてないが。
よって、いま綴った内容については、役員らの知性を懐疑的に思うだけで、実は何らかの策が存在するといえる。より壊滅的なのは、更に内向きの内容に対しても理解力の乏しさだ。小学生の算数が解けないくらい、突如として幼児後退してしまったのかと思えるくらいの理解力のなさはある意味、一般の社員が足を踏み入れることのできない領域かもしれない。そして役員という存在は、半世紀以上生きた人間が多くみられるが、多くの人は所謂オヤジギャグとやらを口にすることがある。一説によるとなんとも面白くない無意味なオヤジギャグというのは加齢による幼児後退の一種とも言われているそうだ。風が吹けばおもしろお年頃というやつだ。
少々脱線したが、より内部的な情報に対して、理解力がないという件については、いつくかの面白い経験がある。たとえば、アポイントメントや営業活動を主軸に行うような部署についてだ。昨今、社会全体的に能力やサービスなどが高度化し、派遣や新規契約などに繋がりにくい現状がある。とくに中小企業には痛手で、生産する量やコスト、そして人員不足なども含めて、他社との継続的な契約に繋がらなかったり、新規契約が見込めず、質が良いにも関わらず倒産することもある。このような現状を踏まえて、数十年前のように訪問し話し意気投合すれば契約ができる、接待やゴルフで先方の気分を高めさせれば契約につながる、そのような前時代的な社会ではない。
前提が長くなってしまったが、これだけではない様々な因果関係の結果、営業担当者以外が思ってもないほど、彼らは苦戦を強いられ、辛酸を嘗めているわけだ。先方との契約では、単純に企業の適切さだけではなく、先方が受け取れる恩恵というのも契約につながるかの判断基準となるが、その会社では、経験がなければ技能もない社員を考えられないほどの強気な価格で先方に契約を迫るのだ。それだと、やはり先方も首を立てに振らないし、営業担当者も見込みのないと理解したうえでそのような活動を強いられて強い怒りを感じているだろう。この営業担当者も技能がある人を先方に紹介できるのであれば、つらい思いもしなければ、もしかしたらその仕事を好きに慣れていたかもしれない。
多くの方はここまでの文章を読んで、何感じただろうか。もしかすると、上司に営業方針変更に関する直訴やサービスや派遣人材の見直し、教育などを考えたかもしれない。私も伊達に社会人を演じているわけではないので、これらの解決策は直感的に思いつく。ただ、思いつかなかった方はもう少し社会人経験を積んでほしいが、このような内容を思いついても無理だろうと考え至った方は、素晴らしい。そう、この営業担当者たちの抱える課題というのは、どのような方策や考察をしたとしても、絶対的に解決することができないのだ。実に面白い。数学的未解決問題のようで、胸を高鳴らせてしまう。不快感で動悸がひどいように。
社長や役員という肩書を持った、人ではなさそうな何かは、このような営業部門の課題について、努力の不足に紐づけてしまう。論理的かつ需要と供給の関係性を説明したとて、意味をなさない。なぜならば、この者たちが、現在その立場にいる理由が過去の結果を伴ったかどうかは関係ない努力をしたかもしれないという増長された誇大記憶の産物を美談と成功体験として記憶の最前列で留置しているからである。飲み会などの場で、同じ経験を幾度となく繰り返すのは、それが理由だ。そして、それ以外に誇れることがない自分を隠したいことと、努力が足りないという理由や目的をそれにより比較しようとしているに過ぎない。つまり、今の活動ではなく過去の活動でのみ理解と行動をするため、現時点での状況を理解することができず、あやふやで的を射ない、そして常に遅い返答をしてしまうのだ。日本語にはこれに最適な言葉が存在する。老害だ。そして、いま社長や役員になっているそれらは、実は数十年前よりもっと害悪である可能性がある。就職氷河期を乗り切ったという自負だ。実に称賛しがたい嗚咽を引き起こしそうなものだ。次に、就職氷河期で努力を惜しまず毎日死ぬ気で働いて残業ばかりで家に帰る日も少なかった、などと言うものがあれば、氷漬けにしてやろうと思う。
このように、現状の議題を完全に無視し、自分自身の経験と照らし合わせ、関係しないものについては、無視をする、ちょうど虫食い状態の文章のようになり、まだ未熟な子どもたちが、読めない漢字を読み飛ばしひらがなだけを読み上げるようなあれと同じだろう。そして、ここでもいえる、幼児後退だなと。故に、部内から発せられた警告や議題というものは、あらぬ方向に進んでいたり破滅に向かったり、最悪の場合、発した担当者が自死を選ぶこともあるわけだ。だが、そこに社長や役員は関与していないと更に強い確信をもって言葉を発するだろう。それらが根本原因だというのに。
このような愚かさは、集団での活動には最悪の結果をもたらす。企業で言うならば、利益率の低下、そこからの株価の低下、投資家や利用者の離散、企業価値の喪失などがあり得るだろう。この結果が、社長や役員らの行動の結果であることは、それら自身は感じておらず、どちらかというと、無礼にも雇ってあげている社員が成果を上げていないからだと言うのだ。そしてすぐさま人員を変更したりやりたい放題だ。結果、現場では求められていた社員が何故かよくわからない場所に異動させられたり、離職することになる。様々な要因を直線で繋げば、社長や役員、それらが原因であるいうのに。
この最悪な状況になるような片鱗を目撃したことがある。最悪に片足どころか、両足揃えて踏み込んでおり、むしろ最悪の足湯とも言える事象だろう。最後にそれを綴る。先ほど記述した営業部門以外も同じように課題を抱えていることがあるが、先に書いた通り。やはり、本質的な解決に至らない。上司や役員の了承を得ないとなにもできないというのは、本当に日本企業の悪いところだ。特に根回しという文化、いいことをしようとしても、先に伝えているかどうかによって、立案が無駄になるということもある。会議の場以前に、先んじて聞いていなければ、特別感がないため、社長や役員はキャンデーを買ってもらえない幼子のように癇癪を起こしてしまう。結果的にその企業をよりよくする内容であっても、数年後退してしまう。最悪な状況になるという、片鱗については、いま述べたものではない。いま述べたように、各部門の社員らは、社長や役員、管理職にまで、伝えても意味をなさないと感じる。つまり、何をどのように上告したとて、一蹴されたり、努力不足だと、非論理的な回答が待ち構えているため、横の方向に吐露していく。ある部門が苦痛を感じてると、別の部門の社員に話し、さらにその社員が別の部門に話す。良いことより悪いことのほうが、人の口伝を介すたびに尾ひれや背びれがつくものだ。結果的に複数の関係ない部門の社員を経由したある部門の不平不満は、他社員からは社長や役員が適切な仕事をしてないようにも思うわけだ。そんなこと考えればわかる当然の顛末であるが、その状況を質問として聞いた社長は、全社員の前でこう答えた。
私が聞いている限り、営業チームに何ら問題もなく、ストレスを抱えている社員はいない。課題は無いため、安心してほしい。
誰に何を安心してほしいと?又聞きで該当部門の課題を知っている社員も多くいるなか、非常に不誠実な内容だと思わないんだろうか。このとき、人の求心力というのは、こうやって消えていくのだろうと感じた。嘘は良くないが、本当でなくても、このあとすぐに状況を確認するなど、社員の状況を知るための方策を口にすれば、ある程度安堵が訪れたかもしれないが。この人間がこの会社を率いていくのは無理だろう、離職が増加の一途をたどるだろう、そう感じた。
社長や役員という存在、個人的にはある程度常軌を逸した人間でなければ、役割を担うことができないと考えている。特に常人だと様々な不安に押しつぶされてしまうため、ある程度物事への無関心さが際立つ人間のほうが、その立場に適している。真面目すぎる人には不向きだろう。その点では、適材適所というものがあるが、聞いた内容の論点を変えたり、あまりにも不適切な返答や指摘をおこなうなどの社長や役員が増えているように思う。人の話を聞いて、思慮を巡らせ、返答する、こんなにも簡単な人間的な物事ができない。責任感もなければ、その椅子に座っているだけのものもいる。企業におけるそれらの立場などを今一度考え直す必要があるが、おそらく変えていくのはこの先30年ほどは難しいだろう。
なぜならば、社長や役員などは、ここに刻んだ文章を含むような書籍を購入せず、読了することもない。本人たちは、自らが責められているのはお門違いで、社員の皆が努力をしていないからだと認知しているため、何も響かない。そう、この文章は、あれらが絶対的に読まない文章だ。故に好きに書ける。
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