持続可能な対話
サステナブル、サステナブルと、世の中はうるさい。持続可能性の前に人類はやらなければならないことがたくさんあるが、それから目をそらすためにわざと、サステナブルと唱えているように思える。
もちろん、多くの企業における、生産活動などにおいて、環境汚染が悪化の一途をたどるのは抑制すべき事実ではある。しかし、それとサステナブルとはまた別の話だ。世の中で、多くの人と足並みをそろえて解決していこうと夢物語を語っているすべての事象が、論点そのものをずらしている、そう感じている。
昨今の社会事情はさておき、最近私は、非常に面白い感性を目の当たりにした。それが、持続可能な対話だ。社会人となり働く人の多くは、好きでもない相手と仕方なく会話する機会が多いだろう。同僚から上司、そして、取引先など。気疲れすることこの上ない。未だ学生だった頃には、感じなかった感覚かもしれない。好きなように話、好きなことだけ聞き、年を追うごとに、私達はそのような感覚が不快であり、故意であることのほうが多くなってしまう。そんな中、同僚や上司と居酒屋へ赴くことがあった。最近、私自身も飲み会という場への参加が少なくなってきているが、やはり気を使う場面というのが増えてしまうのはしかたないことだと割り切っていた。ただ、せっかくお金を払い、その場に座するのであれば、私は相手に対して気を使わずに接したいと思う。いわゆる、無礼講というものだ。こちらから無礼講だといわずとも理解してくれる上司や同僚というのは、全員ではないものの、幸いなことに、その時の飲み会では、適当に相手をこなすだけで、無礼になることはない相手ばかりだった。
そのときだ。上司の口からこぼれ落ちた言葉は、サステナブルな会話だった。物質的な状態を伴わないものに形容する言葉とは思っていなかったが、確かに時速可能なものというのは、精神的なものも含めて、そうだろうと実感することができた。等の上司自体、私達と会話するのが、一時の休憩の急速のような背景を持っているようで、日常会話において全くストレスを抱えていなかったようだ。
そして、その会話内容についても、基本的に意味のないことばかりだ。突発的に思いついたことから、思考力が試されるものまで。ただし、そこで登場した会話の数々が、明日に生きるかと言われたらそういうものでもない。行ってしまえば、リサイクル不可能なその場で捨て去る一過性の娯楽のような会話と言えるだろう。そのような表現をしてしまうと、これが昨今世の中で言われるサステナブルではないということは一目瞭然だが、あしたもまた、同様に無意味な会話を吐き捨てるように、不快感や不満なく、続けることができるというのは、結果的に持続可能な対話といえるだろう。
ただ、この根幹には、人としての快楽や娯楽の意味合いも込められていると考えている。なぜ、持続可能でありたいのか、それは生活するうえで、不必要なものではあるが、あることによって、前向きになれたり、晴れやかな気持ちになるような、娯楽や快楽的としての側面を有している。
将来的には大切であるものだと思うが、環境問題や大量生産などの状態において、今はまだ、人類にとってのサステナブルな社会という定義は早すぎる用に思える。まずは前提や基盤として、人が人たらしめる状態や人として、満足できる生活や考え方というのがサステナブルとして求める、目的の最前線であり、到達点ではないだろうか。
私の主観ではあるが、世の中で、サステナブルと唱えている人間は死を待つだけの高齢者である老体たちだと感じている。彼らにとって、過去の出来事は記憶の彼方だろう。思いつたように、現場で働く図、役員や会長という席で、会社のデスクでは朝から晩まで自分の好きなことに没して、自分の気に入らないことや都合の悪いことに対して、強く命令するようなことがある。その行動自体、はたしてサステナブルだろうか。サステナブルと無意味に唱える老体ほど、日頃の生活を見直し、部下や周りの人間からサステナブルな人間だと思われず、持続可能な会話ができていないと実感できていないのではないだろうか。
世界的なそのような風潮が、持続可能性からかけ離れている。それを理解できずに推し進め、結果的に何も得られない状態となる。冷静に考えてほしい。京都議定書もどこ吹く風。人々が寄りて集まって、環境のため、世界のためにといって行動してもいつか消滅する。理由は簡単で、各国の利益、各企業の利益を求めているからだ。資本主義とはそういうものだ。資本主義においてのサステナブルというのは、いまの世の中で語られるサステナブルではない。
個人的にはサステナブルの定義など、本当に関心のないものの一つだ。ただ、語るならば、やはりまずは、人として、人間として、動物として、持続可能な生活や対話、コミュニティ、そういったものを考えたほう良いのではないだろうか。
結果的にい私が感じ取ったことは、社会的そして、世界的なもので語られるようなものは、所詮現在の主要な中心的に働くひとではなく、人生の余暇を持た余して、金だけ大量にある老体らだと思っており、その人らがすでに忘れ去った感情こそが人としての持続可能性、生き物として、楽しく、そして負荷のかからない生き方、多くの場合、それは持続可能な会話を身近な他人とできるのかどうかということ。今後も他社との会話は常に持続可能であるか考えつつ、負荷の少ない対話を心がけたいところだ。
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