音楽を聞いていて見えてないなかった

時代だろうか、特に学生時代は授業と在宅時以外は、常にイヤホンを耳につけて、音楽を聞いていた。お気に入りのものから、知らない曲まで様々だ。曲の種類などを問いたいわけではない。

イヤホンで聞いていた音楽は、私にとって次第に煩わしいものとなっていった。端的に言うと、耳がつかれたということだろうか。耳がつかれただけではなく、長時間音楽を聞き続けることに価値を感じなくなってしまった。常にあり続けるものや、常に普遍なものというのは、いつか飽きが来るものだと思う。私にとってそれは、イヤホンで音楽を聞く行動そのものだった。

学生時代に音楽を聞き続けており、その後も社会時になってもイヤホンで本学を聞き続けていた。ある時、考えもしなかったことが起こった。
通勤のとき、私はその当時ハマっていた歌手の曲をエンドレスに聞いていた。数ヶ月も経ってないだろう。長期間とは言えない毎朝の曲は、常に私を癒やしたが、それが、「仕事の曲」に移り変わっていった。もちろん、曲自体は、通勤以外にも土日の私用で外出する移動時間にも聴くわけだが、その時の間隔が、どうも仕事の直前という意識に向いてしまう。そう言われれば、不快であることが皆にも伝わるのではないかと思うが、それが行き過ぎてしまい、更に具合の悪いことに、その当時の業務は大きな悩みを私に与えていた。人間関係の課題や、業務遂行に関する課題など重責していた。その状況で、通勤の往復で気に入った歌手の曲を聞き続けるとどうなるか。
簡単な結論だ。その曲、その歌声、その存在のすべてが悪くなる。

そんな不快な気持ちを実感しつつ、しばらく経過した頃に、やはり、どうしても我慢することができなかったため、私は、イヤホンと距離をおいた。正確には捨てた。安価なものではあったため、それ自体の役割を終えたということで、捨ててしまったのだ。
この判断が悪かったのかどうか、今になってもまだわからないが、それから、4,5年の間、私は、自宅はもちろん、屋外での移動中にイヤホンをつけて、音楽を聞くことはなくなった。車で外出する際にスピーカーから曲を聴くことはあるものの、外の音を眼前に遮断したうえで、曲を聴くということは、皆無だった。

仕事の問題や友人関係の課題で、かなり落ち込んだ頃と重なっていたため、よく、外を歩くことがあった。全てにおいて、行動しようという考えが無く、自室も荒れ果てていた。ただ、引きこもり続けることは尚良くないと考えてることはできたので、その日の吉方位へ30分ほどあるくという修行のような毎日を過ごしていた。往復で1時間だ。九星気学における吉方位だったが、自身でどこにいくかという判断さえもできなかったため、そのような仕組みに頼ったが、これが良かった。自身の考えに依存せず、さらにその方角が吉となる。最高じゃないか。実際に、運勢的な向上が見込めたかどうかは、神の知るところではあるが、私の目的は、最低限の人間生活に戻りたい一心で誰かが決めた方角にあるきたかっただけなので、特に気にしてはいなかった。

夏は、往復で家に帰っても明かるい日が多かったが、冬は流石に、外を歩くときにはすでに暗い。だが、それを仕事で帰りが遅くならない限りは、ほぼ毎日遂行した。先の通り、イヤホンもしていないため、歩いているときは、その場所における環境音が常に耳に届いていた。歩く方角についても十二通りあるなか、毎日異なっていた。端的な確率で考えると同じ方向には、ひと月に二回しか行くこともなく、ひと月の間の外出と環境音は新鮮なものに感じた。

数ヶ月ほど歩いて、実感したことがあった。それが、イヤホンを外すことで、見えてなかったものが見えるようになった。イヤホンをし続けていると、周囲の環境音が耳に届かない。ただ、何もつけず散歩することで、環境音を常に聞くことになる。私は、周囲の音に敏感であるため、少し音が聞こえてしまうと、そちらの方を注視してしまう。窓からこっそりとこちらを見つめているような人影を見ることもあったが、普段目にしなかった風景を知ることができたため、一つの散歩でも充実することが多かった。猫などもそうだが、人の話し声や、子どもたち、新しくできている建物、闇夜の鳥たち、なぜか、これらが私にとっての充足感を作ってくれた。

いま、この充足感がなんだったのか、振り返ってみると、閉塞感の強かったその当時に感知しない、いわゆる「どうでもいいこと」を認知することで、私自身の考える方向性が悩んでいる課題から離れていったからではないかと考えている。課題に対しての関心が、外のなんともない状況や物事の影響で、だんだんと離れていき、周囲や課題に対しての無関心さが助長され、総じて気分が良くなっていたのではないだろうか。

ただ、直近は、少しだけ悩ましいことがある。それは、公共交通機関などでのマナーの悪さだ。この数年、なぜか急増したような気がするが、イヤホンをしていなかったことで、些細な物音で、そちら見てしまう。足を放りだして座っている人や、大声で話す人、電話や動画を爆音で流す人など、不快であることが多くなってしまった。そのため、個人的には、イヤホンはつけても癒やしの音楽や、無音でノイズキャンセリングのみなど、使い方は考えなければならないのかと考えている。

今後、イヤホンをつけるかどうかは、一旦検討死体が、少なくとも、外を歩くときは、周囲の音を聞きながら、その場を実感してあるいていきたい。

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