9年と15年と

もう、無垢な童であった小学生の頃なんて思い出すことができない。そういうと、周りは他人に興味ないからだよねと一蹴する。
失礼な、私でも他人に関心を持つことだってある。特に気持ちや考え方が一致するような他人には強く惹かれる。逆にそこまでの他人の場合、記憶の隅々にこびりつき、忘れることさえも難しくなる。
世間的に多い例であるかは不明だが、私の地域では、小学校から中学校に進学するとき、近隣の2つの小学校の生徒がそのまま同じ中学校に進学することになる。人によっては、中学校受験などもあるが、ほとんどの一般的な子どもたちは、小学校卒業後も顔なじみと同じ学校に通うのだ。
同じ地域に根を下ろし、産まれてから生活していれば、小中学校が一緒の9年間の付き合いになる人も少なくない。ただし、全員と強い結びつきで関わるかと言われるとそういうわけではない。ともに外出し遊びに行くほどの仲では、指折り数える程度だろう。
ごく少数だが、保育園や幼稚園もともに過ごす者もいる。そうなると、10年以上の歳月を恥じる恋から称賛される行為まですべて知られてしまうことにもなる。最も避けたいのは恥ずべき行為がずっと記憶に残り続けているような状況だろう。いわゆる若気の至りほど、自害したくなるものは他にない。
そんな旧友たちと15年ぶりの再開だ。会いたかったといわれると、そこまでの熱意は無いものの、会いたくなかったかと言われると、少々口がまごついてしまう。ともに同じ時間をすごしている場合は、最大で15年となり、30歳という節目ではちょうど折り返しとなり、来年からは、会わなかった時間のほうが会っていた時間より長くなる。これはこれで少しばかりさみしいか。渡しの場合、若干特殊で、大きな理由はないものの、進学した高校は私以外に中学生までの同期はいなかった。特にそれまでの知り合いを避けたかったわけでも、新たな環境を渇望したわけでもないが、さほど地元から遠くもないこの高校に一人で進学したのは、むしろ奇跡に思える。
その影響から、中学校卒業とともに、それまでの友人とはほとんど合わなくなったのだ。

15年ぶりの旧友と会うための顔も服も何もかも持ち合わせていないように感じている。当時は何を着れば良いのか、そして、どのように声をかければよいのか。周りは、どのように変化しているのか。話す話題でさえもなにも持ち合わせていない。退屈な人間だと思われると、さすがに私も傷つくかもしれない。この歳月は、残酷であり、私のことを何一つ考えてくれない。このような感じで、月日の流れは私の心も記憶も思考も蝕んでいく。常に出会いも環境も二度同じことがおとずれることはない。そんな機会に私はどのような行動ができるのだろうか。

もとより、寡黙で人見知りの私にとって、15年ぶりの再開は、初めましての出会いにしかならない。当時は、夜な夜なお酒を飲む飲み会なんてものもなかったわけで、人によっては、喫煙していたり、中には酒豪になった人もいるだろう。15年の歳月は、おそらく人の見た目も変えていく。私も旧友にはよく見た目が変わったと、整形を疑われることもあるのだが、それをヒトネタに盛り上がる。同じく今回も盛り上がるかもしれないが、初めましての出会いに等しい皆々様と話題を広げながら、楽しく話せるだろうか。ひとまず片隅で、ひっそりとお酒と料理をつまみながら、話しかけてきてもらえるのを待とうかと思う。
嬉しいことに、私の旧友たちは、苗字ではなく、下の名前で気軽に呼んでくれるのだから。

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鳥生真夏
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