スピと唱える知性のなさ

口を開けば、スピスピと、知性のなさを光らす、人でなし。
日本人の文化的な真髄として、神道というものがある。所謂、神社に対する信仰である。世界中、唯一神もあれば、日本のように多くの神々が存在する考え方もある。これに対して、どれだけ信仰を持つかどうか、というのは個人的には関心のない要素だ。
信仰というのは、人としての拠り所をどこにしているのか、辛いとき、悲しいとき、頑張りたいときに、自己暗示を掛けたり、他責にしたいときに用いる対象だと考えている。信じなければ報われなかったり、教えのとおりでなければ地獄へ行くだなんていうのは、心底関心の外側にあるのだ。
そんななか、日本における神社などの信仰は自然そのものに対してや、豊作を願い、そして祝うこと、それだけに限らず、様々な側面で心の拠り所として用いられていると考えている。そしてそれが、近年ではなく、古い時代から発展し、継続し、現在に至る。なにも神社に対する魅力などをここで伝えたいわけではないものの、私は、人生の区切りにおいては、お世話になった土地の大きな神社へ挨拶に行くことがある。これは、健康に過ごせたことももちろんだが、嫌なこともあったりしたときに、これらを清算したいが、それを話す人も振り返る場もない。そのため、神社の神聖と呼ばれている地にて、自身の直近の出来事を振り返ったり、次の区切りまでも安心して過ごせるように望むのだ。これは、願望もあるかもしれないが、自己暗示を行っているに過ぎない。仏教もそうだが、多くの場合、その場では自身と向き合うための空間を提供しているように思える。そのため、私にとっての神社などは、神という信仰以前に自身を見つめ直す空間だと認知しているのだ。
加えて、神社への魅力を考えるならば、歴史の流れに加わっている点だろうか。突如神が現れ、その土地を平定したというような神もいわすわけだが、私が知っている神社の多くは、その土地を安定させるために土地の神を地場に住む者共が自発的に崇めていたものだ。他には、疫病や不作など村民に対して様々な不利益が降り掛かったときに、それらを収めるために神社という存在を用いるというものだ。私が好きなのは、ただ無心で、なにかを盲信しているのではなく、このように、何かしらの要因に引っ張られ、人が自ら神をそこに定義するような行動だ。人は、よく、困ったときの神頼みをするが、まさにそのとおりで、その時に発生した以前はそもそも神社や神など認知も思想もなかったはずなのに、突如として、そこに神という存在が確定するのだ。そして、その多くは、その土地や日本という国の中での大きな分岐点や変化を齎す。
私は、そのような神社や神の活用、社会に与えた影響というのにも、めっぽう目がないのだ。
ついでに、ご利益に授かれば困ることなどなにもない。さらに、近年では、その美しい空間などにも関心が集まり、観光名所となる場合も多くある。そこで私は、その土地では行くところがないだの、飽きてしまっただの、ほざく知人に神社の紹介を行うことがある。その時に飛び出した言葉は本当に困惑した。
それは、スピリチュアルだ。
私が話している相手は、日本人だよな。三が日なんてどうしているのか、七五三など経験したことがないのだろうか、戸建ての家を立てるときに地鎮祭を行うのは神社の関係者だが。と様々な言葉が脳裏をよぎった。よぎったまま言葉には出さなかったが、その時気づいた。この人は日本人ではなく、神社の考え方や何においても、宗教的なものについては、小馬鹿にしているのだと。もちろん、ご利益や天国に行けるなど、そのような抽象的かつ、保証のないものについて、私も盲信しているわけではない。だが、全てをまとめて、内容を知らずにスピリチュアルだとひとまとめにされるのはいささか不満だ。口を閉じさせるためにそこにある食べ物を口の中に詰めてあげようと良案を思いついたが実践しなかった。
前述した歴史的なものや映えるようなスポットとしての表現をしても、なお、やはり、この人間にとって、神社というものを不純かつ無意味なものとして分類したいようで、街なかで幸運になれる壺を売られるときのような反応を繰り返した。私も、行ってほしいとか、無理強いしている訳では無いのにも関わらず、口を開けば、なぜ最初から否定的に話をするのか。日本人であれば生活に密に関わるものだろう。思想的にそれらを禁じられた家系なのだろうか。良いではないか、神社。静寂で参拝する人以外はほとんど訪れない。その上、願い、もしかすると、良い結果に恵まれるかもしれない。何が問題なのか。
話を聞いてみると、この人のような形をした喋る愚者は、なにやら歴史などに知見がないようだった。どうりで思慮に欠ける発言がこれまでにもあったわけだと、ようやく合点がいった。皇族を祀った神社もそうだが、実在した人間も神格化して神社で祀られていることが多い。自然環境や偉大だった人、これらが今もなお神社という形式で信仰、があるには、意味がある。歴史的にもそうだし、それだけ偉大な行動や結果を残したということだ。それがわからない。
歴史というのがどれほど重要かというのを私は偉そうに語ることはできないが、過去の出来事が、今の我々を活かし、そして、我々の行動の手本や、行ってわならないこと、考え方を醸成する。スピリチュアルだと盲目的に主張したこの者は、仕事としても成果があるというわけではなく、物事の因果関係や効率的な方法、周りとの関わりなど目に余る。全てとは言えないが、何かを無神経に逆撫でするような発言をするものは、把握能力というものを持ち合わせていないようだ。これ以上相手にはできないので、私は、そうそうに話を切り上げ別の話題へと移った。

補足だが、この場にはもう一人、愚かな思考の持ち主がいた。私が限定的な神社についての話をしたところ、こう発したのだ。
いつのまにそんな感じになってしまったの。
非常にうるさい。お前が私の何を知っているのか。思っても口には出さなかった。その者とは、10年ほどの仲となるが、私はそんな君と出会う前、15年以上前から、歴史だけではなく、神社について興味を持っていたのだ。君の知らない私の一面を今知ったからと言って、なぜ、過去からの継続的な流れの中で、この直近で変化が生じたと勘違いしているのか。私のことを何も知らないくせにもとより理解したふりはしないでいただきたい。本当に、このとき、勝手に知られている感じが、君を滅ぼしたいと切に願う瞬間だった。ただ、私は冷静だ。ふと気になる一言を言われても、咄嗟に反論もしなければ、相手の発言を上回るような大打撃は与えない。これが、思慮のある人としての真っ当な生き方だと思うから。

さて、そのような知性の欠片もない愚かなものは横において、今日も自身の思考を整理するために、かの静寂な土地へ参ろう。


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鳥生真夏
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