列車と車窓とまどろみと

窓の外を眺めると、木々に隠れてコンクリートが通り過ぎていく。いつも列車に乗ると不思議な気持ちになる。乗る瞬間というよりは、降りたくないという気持ちだろうか。ある特定の場所に入るとき、緊張を感じることもあるだろう。私にとって、列車は入るときより出る直前の気持ちが他と異なるように思う。

見た目としての構造は、飛行機や自動車などと異なり、長方形の立体だ。この造形も個人的には気に入っている。天井と床を除いたすべての範囲で窓ガラスが嵌められ、外を見ることができることも魅力的だろう。列車の車両のような家があれば、完璧だと思うほどだ。例えば、映画の劇中や、昨今では、固定資産税を減らすため簡易的な宿泊施設や飲食店、小売店などで、貨物用コンテナやプレハブのような、矩形の立方体が用いられている。

これらの構造体で過ごすことができるという点では、もしかすると秘密基地のような印象を受けているかもしれない。入るときより、入ったあとの背徳感のようなものだ。幼少期も森の中や様々なところで、秘密基地のような環境に身をおいた。行くことより、居ることが個人的には重要な気がした。重要と言っても、これがやらなければならないことではなく、自身の欲求を満たすための行動とも言えるだろう。

このように、列車の車両内は、私にとって潜在的な欲求を満たしているようにもお思える空間だと言うことだ。他の乗り物に比べ揺れも少ないと感じているため、読書や食事もなんでもできる。自動車だと読書すると寄ってしまうが、列車はそんなことない。日本の場合は、座席も座りやすい車両が多い。空調も季節によって変わってくれる。全体的に好みの空間だ。

列車の内面的話だけではない。他に気に入っている点は目的地へと止まることなく進むことだ。つまり絶え間なく景色が動き続けること。自動車の場合も概ね同じだが、停止の頻度が列車よりも多い。できれば、断続的な状態が嬉しいのだ。

そんな秘密基地のような空間で移りゆく景色を眺めていると終わりが来てしまう。それは目的地だ。一駅一駅と目的地に近づいてくると、若干の落胆した気持ちになる。この空間とも別れなければならないと。もとより手段としての列車ではあったが、心地よさが故の落胆だ。おかしな話だろう。目的地が目的ではなく、道中の列車が目的のように思えるから。時たま、列車で長距離を移動することもある。乗り換えが発生したりするが、快速や各駅停車で、三時間や四時間。揺れる列車で心地よく居眠りしたり、読書に時間を割く。目的地に行くためには、必須の移動ではあるものの目的地での滞在時間よりも移動中の時間がより長くなる。こうなると、やはり道中が主たる要素と言っても過言ではないだろう。

だからといって、道中の列車で過ごす時間を快適にしたいと思うわけではなく、その空間そのものにおける時間経過を全うしたいと思うのだ。可能な限り景色も常に見ていたくて、過去には非常に面白いものをみた。

青森市から八戸市へ向かう列車に乗った。年度末が近づく頃合いで、青森市内には眼の前が真っ白になるほどの雪が降っていた。やはり東北の雪国は、その名のとおりだと考えにふけりながら、列車に乗り込んだ。意外なことに座席に空きがないほどそこそこの人が乗っていた。外の寒さとは異なり、やはり列車の中は温かい。車窓を眺めていると、青森らしい吹雪や除雪された道と除雪された雪が住宅の高さほどに盛られた景色が長く続き楽しめた。異なる環境に身を置くあまり非現実感を覚えたのだ。その後、八戸の方へ青森を頂点に時計回りに太平洋側で移動していく。車窓を眺めながら非常に面白く感じたのはここだ。日本海へ映るにつれて、雪が少なくなってくる。はじめは積雪量や降雪の度合いのみだった。ずっと眺めていたにも関わらず、気づけば、土の色が中心の景色となり、終いには雪がまったくない景色となった。同じ青森とは考えられないほどだ。風景が緩やかに変化しその様相を変えてく、これが、季節の移り変わりや太陽の浮き沈みを彷彿させた。このとき、車窓というのは、一つの映像作品になりえ、変化する芸術にもなると感じた。

単純な列車そのものの心地よさのみならず、そこから見ることのできる視覚的な感動が列車から出ようとする私の後ろ髪を今日も引いていく。いつかは寝台列車などで日本一周旅行をしてみたいものだ。

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鳥生真夏
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