今日も明日もドブ色世の中
外に出るだけで、ベルトコンベアのように次から次へとドブのような色に染まってく。
カフェで少し本を読もうと思ってみても、私の敵は眠気ではない。もちろん本を読みに行くため、前日に疲弊していたりすると眠気に襲われることだってある。ときには的になる眠気だが、それをはるかに超えるほどの敵が現れる。
敵という表現は若干過剰かもしれない。どういう表現が適切かと言われても他の案が全く思い当たらない。足りない知識で引きずり出した表現でいえば、公害だろうか。
仲間内では冗談で歩く公害なんて表現で笑い合うこともある。風呂に入ってない友人がいれば、実際に臭ってなくても悪臭がひどくて、街なかでは歩く公害だと笑い合うこともある。
いま表現しているのは笑い事では済まされない。公害でなければ敵という表現でしかできないくらいあるのだから。
アメリカのような多国籍な国民が住まう国に訪れたことがある。東洋人から白人、黒人、夜なのに街なかは明るくランニングに励むワーカーもいる。私が住んでいる近辺では見ることのなかった風景で当時、興奮と奇怪さとでよくわからない感情だったのを覚えている。
世界的な感染症があり、収束しつつある頃、これまで封じられていた渡航が活発化して、私の身の回りにも国籍を問わない訪問者を目にすることが多くなった。この国が好きで、社会人であれば休暇を取り、航空券を手配し訪問してくれている。ぜひ楽しい思い出や帰りの際には地元へのお土産なんかも買ってほしい、と思う。だが、最近は、そんな渡航者が本当に多すぎる。湧いて降ってきているのかと言いたくなるような量だ。電車にのれば、隣は異邦人。前にも異邦人、聞こえてくる言葉は知っている言葉でもない。どこからともなく聞こえる音は、日頃耳にしているわけではないから、音楽よりも若干不快に思うところだ。
楽しいのは結構だが、もう少し声の音量を下げてくれることはできないだろうか。そんなことを思うのが、カフェでの読書だ。敵だと感じるのは、読書中に隣だけではない、隣の隣など、もっと向こう、劣悪なときには、空間の対角線上の最も離れているところからの声も耳の中へ自然に流れ込んでくる。自然に流れてくるこれらは、記録的な大雨のときに山の頂点より雪崩れてくる土砂崩れのようなものだ。止めることもできなければ、傷跡を癒やすこともできない。ゆったりとコーヒーでもすすりながら読書に励みたいにも関わらず、カフェの空気はドブ色だ。
渡航してくる観光客の問題が話題になりつつある昨今。その最たる理由は誰しも、どのような人間であっても航空券さえ手配できれば渡航できるということだ。便利な世の中だ。数百年前くらい、さっくりと知らない人種が来たら速攻で打首にしてみたり、ちょっと話を聞いて慎重に取り扱ったりしたいところだ。このだれでも渡航できる問題点でいうと、個人的には現金のみの一時金の預かりで解決できる気がしている。ただし、安価ではない。そうだなその国における100万相当か、車一台くらいでもいいだろう。変換されなければその後困惑してしまう位の金額だ。一人当たりそれくらいの金額を一時金として支払うことができなければ、相応の経済力がないとみなされるし、経済力がなければ、相応の思慮深さもないと言える。やはり、金に変えられないという表現は素晴らしい。金に変えられないのだから。
私がドブ色に感じているのは、電車やカフェ、あとは小売店あたりだろう。店員さんに至ってもすでに異邦人だ。これは侵食というのだろうか。ぜひ母国にて労働に勤しんで、母国にて経済循環を行っていただきたいが、一色だと美しいものが多種多様の色味に侵され、黒よりもひどい不快な色味になっているように思える。
私は、私が住んでいる国で、私の住んでいる街で、平穏に生きたいだけなのに。肩の力を抜くことさえもできない。異邦人の多さは異常だ。外を歩いてるとき、買い物をしているときでさえ、知らない言語での会話がよく聞こえる。一番嫌なのは、我が物顔というところだろうか。なぜ彼らは、あれほどまで自分たちの地元のように振る舞うことができるのだろうか。その場に馴染むために、その場に順応するという力がないのだろうかと考えたが、先日書籍にて面白い表現を知った。
「スペードをスペードと呼ぶ」だそうだ。スペードというのはスコップのようなものらしいのだが、一番最初にトランプを思い浮かべるのは私だけではないだろう。ありのままで、率直に物申す姿勢のことだそうだ。ときには大切な姿勢ではあるものの、こういう人間ばかりでは意見も一致せず全員が全員反発し合うのは目に見えている。妥協や折衷など人間としての知性を活用してこそ世渡りができるというものだ。指針の一つとしては、もちろん私も取り入れたい考え方ではあるものの、異国に行ってまでそれをどこまで披露するのかというのは考えどころだ。もちろん尊厳が損なわれるような環境ではそうしたいが、日常的に表面化したくないと思う。
異邦人の多様さに対して、色を付けて行きたいわけではないが、科学物質のような混ぜるな危険と言えるような人間同士というのも少なからず存在すると思う。世は多様性を歌っている偽善に満ち溢れた環境ではあるがそれはそれで行きにくい世の中だとは思わないだろうか。あれもこれも気にして、すべてを受け入れて、果たして自分の意見はどこに行ったのだろうか。皆が我慢し、思ったことを言えずに、けれども外からよくわからない人間が流入してくる。もうお腹いっぱいで、そろそろすべてを吐き出してしまいそうだ。もしテレビであれば、キラキラな光とともに美しい音楽が吐瀉物とともに描かれるが、これはおそらくドブ色だろう。
ここまで綴って、個人的な解釈として腑に落ちたのは、人種の多さが周囲の色をドブ色に染めているわけではないとうことだ。では何がそうさせているのか。多様性という言葉だ。何を発言しても差別的だと避難され、規律も思慮も礼儀も作法もなにもなく、混沌とし、人類の誕生時点まで退行したかのような状況。それが私にはドブ色にみえるのだ。
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