与えられる不快感と根源的な問題

著しく困ることはなにか。不快な思いや気持ちが募ったことで、それを口に出すことが許されないことだろうか。実際に生きている家庭の中で、どれほどの言葉を噤み、飲み込んできたのか数えることも難しい。

我々の生きているこの世界では、思ったことをすぐに言葉にすることは、勧められていないだろう。その理由がわからない人もいるが、これがまた致命的だ。いわゆる空気を読むという感覚となるのだが、その場の状況を鑑みることなく、思ったことをすべて口にすることは、理性がないと思われることもあるだろう。

私はよく外出することがあり、目的地が様々だが、飲食店に訪れることも多い。その時、収容人数に関係なく、声の大きい訪問者がいると、どうしても不快になる。人の話し声が聞こえる事だけでは、感情が揺れ動くことはないが、私を不快にさせるのは、眼の前の人の声が聞こえないくらい、離れたところで話す人の声が、鼓膜を突き破るときだ。

睨みつけたい、注意したい、その人達が深いになるくらい、同じくらいの音量で話しかけたい。ただ、どのような情景を思い浮かべても、私が更に不快になる未来しか見えないのだ。周囲の人の影響で不快になるが、それに対する改善する行動で更に不快になる。

友人からは、気にしすぎだと言われる。気になるから仕方ないだろう。一人でその状況に陥ったとき、共感してくれる人もいないため、より心が苦しくなるのだ。

もとより、細かなことに対して、気にしてしまうことが原因なのか、自分以外の他人の以上な行動が許せないのか、私は私が許せないし、分からない。

様々な思考を巡らせ、感情の落ち着き、苛立しの抑制、様々な側面で自己解決を目指すが、ふと脳裏をよぎったのが、北風と太陽という物語だ。

あの作品は、強さより親切さが最適である、というような結びとなる。風の強制力を持った行動より、太陽の心地よさのほうが良いだろうという話だ。今の状況に重ねると、迷惑行為を行う人に対して、注意や矯正は本質的な解決に至らないと言えるだろう。

では、私は、この理性や品性、知性のかけらもない低俗な者共をどう対処すべきか。おそらく、この対象への思い、認識からが誤っているのかもしれない。物事は小手先のような行動では何も変わらない。常に根本的かつ本質を捉え、末端ではなく、中心から変革することが最適だ。そのため、迷惑行為をするような人をみながら、すでに蔑んで、低俗な表現をしてしまう時点で、どうも変わらない。

不快であり、迷惑行為を行う人、低俗で、品性もなく、理性がない人を本質的にもっと異なる表現をするならば、どうすべきか。

ここでの一番の問題は、理性のありそうな成人した真っ当な人間だという前提の上で、認識し、その上で迷惑行為をしているから蔑んだ表現なるのだろう。その人達が、いわゆる大人であるということは、主観的な評価にすぎない。本人たちの認知とは異なる可能性が十分にあり得る。ベンジャミン・バトンも表面的な年齢と実年齢が異なっていたということもあるため、眼の前の人を見えている通りの認知とするには、早急すぎるだろう。可能性として、見た目が老けているだけの子ども。特に反抗期などの周囲の状況と真逆の行動を取りたがり、周囲の大人に対して、逆張りするような性質だろう。世の中の中心だと勘違いしている女子高生の集団だと思えば、声の大きなおじさんも、声の大きなおばさんも皆かわいく見えてくるかもしれない。私は、成人した人には手厳しいが、未成年についてはまだ振る舞いのすべてを理解していないと考えているため、ある程度の粗相には耐性がある。同じく赤子の鳴き声は、バッハの旋律のごとく聞き心地だと思っている。

それ故、理性や知性のなさそうな、成人のような生き物をみると、不快感が募るのだろうと思う。無条件に泣き叫んで良いのは、赤子だけであり、皆それを通過しているわけで、今もまだ、同様に大声を上げる品性のなさは、不快感の原点たらしめるのだろう。

つまり、今の私には、この不快感を解決する術を思いつくことはできないものの、今後の教訓として、考えられることがある。

それは、見た目の年齢と精神の年齢だけではなく、その人が理解している最適な理性や振る舞い、そして品性は、共通ではないということだ。世界の基準で見たときに、貧富の差や学力の差、様々な違いが存在する。そのため、私の思う迷惑かどうかの判断基準を他の全てに適用すべきではない。無論、我慢もしたくないが、赤子が泣き叫ぶことについて不快感を覚えない時点で、成人の迷惑行為も同じ人間という領域では、同質のものであり、同じ基準の上で認知したほうが、精神的に調和が取れると思い至った。

赤子も成人した人も同じ人間であり、人という側面では誰しもが同質的であり、どのような行動もまた同様であると考えられる。よって、成人の迷惑行為のそれは、赤子の無知からくる行動の一部だと考えることができる。よって、成人だと思い込んでいるのは、私の主観であり、それらはみな平たく、赤子のそれと同様のため、不快感や怒りに満たされることそのものが異常なのである。

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鳥生真夏
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