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ファノンの皮膚、ヘーゲルの仮面:①主人と奴隷の弁証法編
奴隷制度が弁証法にとって例外的な狂気であるならば、読者は弁証法をすぐに投げ捨てることができる。しかし、もしそれが例外的なものでないなら、弁証法はそれとともに立ち、それとともに倒れるのである。
(If slavery is an insanity exceptional to dialectics, the reader can toss dialectics right away. But if it’s not exceptional, then dialectics stands and falls with it.)
『精神現象学』は600ページの単なる余談か
クリス・アーサーが言うように、「まるで『精神現象学』の残り600ページが単なる余談であったかのように!」と誤解されかねないので、「B 自己意識」で登場するヘーゲルの主人と奴隷の弁証法は、「不条理な過剰強調」なしに注意深く中立的に解釈されるべきである。
しかし、それと同時にその弁証法が社会生活の理解を助ける非常に有用なカテゴリーであることは心に留めておかなければならない。本稿は、主人と奴隷の弁証法の詳細な読み解きと、その社会生活の理解への示唆という2幕構成になっている。
まず、主人と奴隷の弁証法を先行研究を手がかりに注意深く読み解き、社会生活の理解を深める上で重要な価値を持つことを強調する。そのうえで、ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法は、他者との出会いによる自己意識の発達、互酬性の関係としての認識、造形活動の力といった基本的な概念を導入することによって、社会生活をより広いスケールで理解するための理論的枠組みを提供し、肯定的な意義を担うと結論づける。より正確に言えば、ヘーゲルはこの弁証法によって、相互性、認識、権力に関する議論の土台を築いたのである。
青春ロードムービーとしての『精神現象学』
その「序論」で強調されているように(例えば、第78節)、『精神現象学』全体を貫くテーマは、(自然な)意識が真の(絶対的な)知識に向かって自らを形成していく、いわば、青春ロードムービーと言ってもいいだろう。 ハイデガーにとって、この「弁証法」あるいは「自然意識と絶対知との対話」とは、経験そのものにほかならない。
『精神現象学』の仮題が『意識の経験の科学』であったことからもわかるように、意識が主体として活動する領域である経験は科学の対象であり、意識の経験は現象学において最も重要な概念の一つである。感覚的確信、知覚、力と悟性など、「B 自己意識」の前の章で説明したように、意識の重要な特徴の一つは、試行と失敗としての経験であり、それが意識を前進させる。
自己意識においても同じことが言え、経験する意識そのものが、「異なる自己意識」の統一としての自己意識への変容の入り口に立ち、融和することによって、孤立した個人を乗り越えて生命の普遍性へと向かう精神となる。(第193節) この段階では、自己意識は、自己意識と自己意識との統一の動きの中で、欲望としての能動的意識として現れる。(第167節)
欲望の欲望としての別の自己意識の発見
この最初の自己意識的存在が、その「生命の広がり」ゆえに真実ではなく本質的でない今、「一見与えられた対象の本質として自己を把握する」というプラグマティックなアプローチを持つ欲望(ポール・レディング、2008年。また、この欲望(Begierde)という用語は、フィヒテやカント的な「道徳的自己意識の協調」という意味での「食欲に基づく実践的志向」として理解されなければならない。)は、自己意識の存在という満足を満たすか、または「異なる自己意識」の統一と「生命の世界性」の両方を達成することができる。
しかし、欲望としての自己意識は、自己の欲望を欲望するので、自己を否定することができる欲望としての別の自己意識を見つけることによって、欲望の充足に達するか、自己意識の真理を達成することができる。
自意識の条件は、他の自意識の存在である。欲望は、生命がもうひとつの欲望として現れる場合にのみ、単に確信の主観的段階にとどまることなく、存在において自らを提起すること、そして真理に到達することができる。欲望は、欲望に耐え、存在するものの中でそれ自身を発見しなければならない。つまり、自らを発見し、発見されなければならない。
この自己意識の特徴は、人間とは何かを構成するものであり、コジェーヴは「人間の歴史とは、欲望された欲望の歴史である」と断言している。(また、この「互いに認め合う(anerkannt)」という自己意識の「承認条件」が、『精神現象学』におけるヘーゲルの重要な命題の一つである。)
(欲望による)相互承認のための生死を賭けた闘争
ここでいう自己意識の目標とは、「自己充足的な自己意識として認められるという真理」の達成であり、それゆえ「自由が本質であることが証明されるのは、ただ自分の生命を賭けることによってのみ」であり、「自己意識とは、ただ純粋に自己のための存在である」のだから、「それぞれが同様に、他者の死を目指さなければならない」のである。(第187節)
ここで証明される自由とは、死の恐怖から解放されたものである。 相手の自意識の死のために自分の命を賭けることができるのは、真の自己決定的存在だけなのである。 こうして、二つの自己意識の最初の出会いは、相互承認をめぐる両者の闘争へと移行するのであり、ジャン・イポリットはこの弁証法全体を次のように正確に要約している。
人間の欲望は、それが別の欲望を観想するときにのみ生じる。もっといい言い方をすれば、それが別の欲望に重なり、認識されるべき欲望となり、それゆえにそれ自身が認識されるべき欲望となるときにのみ生じる。存在することのうちに自己を見いだし、自己を存在させるという人間の使命は、自己意識間の関係においてのみ実現される。
この自己意識の生死を賭けた闘争は、両者の対立を必要とする。しかし、他方の自己意識の死はその認識の喪失をも意味するので、否定としての相手方の死によるこの対立の解決策は、何も止揚(アウフヘーベン)されることはない。この闘争が達成しようとするのは、「単に欲望の充足をめぐってではなく、何を客観的な視点とみなすか、ひいては何を真理とみなすかをめぐって 」である。(テリー・ピンカード、1994年。)
その目的を果たすために、唯一可能な解決策は、一方が他方の認知のために他方の生を残すことであり、ここで初めて、自己意識の間に非対称的な関係が生まれる。一方は認知のために命を賭け、他方は認知のために命を選ぶ。前者は主人であり、後者は奴隷である。 (「主君」と「束縛者」という翻訳があったり、ピンカードは「主人」と「従者」と訳したりするが、本稿ではヘーゲルのKnechtという用語に対するテラダとレオ・ラウシュの見解を参考にして「主人」と「奴隷」という用語を使う。)
主人と奴隷の対等で不平等な関係
主人と奴隷の関係はこうである。
モノと自分との間に召使を介在させた主人は、その結果、モノの非自己充足性と結びつき、それをただ消費するだけである。主人は、モノの自給自足という側面を、モノに働きかける召使いの世話に委ねているのである。
否定が主人によって尊重され、世界の本質を消費し、「即時的な自己確信」を提供するのに対して、「奴隷は生産に価値を置き、世界を精緻化する過程で世界を変化させる」。(イポリット、1974年。)
『精神現象学』の「実存主義的」読解の文脈において、イポリットとコジェーヴは、生としての奴隷の存在はその自律性を破壊されたと見ている。というのも、奴隷は死の自由よりも生の奴隷であることを好むので、奴隷の意識はその自律性を自己意識よりもむしろ事物性の形で保持するのに対して、主人の意識は奴隷による認識や「事物性の手段」の上にその独立性を見るからである。 奴隷は、最初の認識争いで「絶対的な主人である死への恐怖」(第194節)を感じるため、自らの欲望を抑圧し、造形活動によってその欲望を満たすために主人に仕える立場を選択する。 (第196節)
言い換えれば、主人は、奴隷という従属的存在(非自己充足)による認識の(だけの)ために、自らを独立(自己充足)した存在と見なし、またそれと同時に、その従属的存在(非自己充足)である奴隷を物体性から独立(自己充足)した存在と見なすのである。この奴隷の物体性への自立は、主人が自立として認識されるために重要な役割を持っている。
なぜなら、認識は依存的存在によって達成されるものではなく、別の自立的存在を要求するからである。認識の条件は、「全てが一方的である。つまり一方が認識し、他方が認識される」というクエンティン・ロウアーが明確に指摘するように、両者の不平等な関係を実現するために、独立した存在の対等な関係を必要とする。
労働は自由をもたらすのか
とはいえ、この主人と奴隷の対等で一方的な関係は、現実性と奴隷の意識の両方を形作る奴隷の造形活動能力のおかげで、徐々に変化を見せ始める。
恐怖という否定的な瞬間は、あらゆる固定性を解消するために必要であり、従順な奉仕の瞬間は、混沌とした活動を労働へと変容させ、現実と奴隷の意識の両方の変容(構築)をもたらす。
強調は原文。但し、引用者によりイタリック体を太字に変更。
「客観的世界の能動的変容」である奴隷の労働は、当初は、本質的には、ただ恐怖による「死の回避」から来るのであるが、ヘーゲルは、「そのような手段によって、働く意識は、自己充足的な存在を自己として直観するようになる」と主張する。(第195節) こうして奴隷は、主人のために創造する労働の中で、「普遍的な力」の意識を目覚めさせるために必要な「恐怖と奉仕」を経験した後、その創造的活動をマスターすることを学ぶのである。(ロウアーは、ヘーゲルを、人間の労働に自己意識の発展における建設的な意義を与えた最初の哲学者として評価している。)
ヘーゲルによれば、奴隷の労働こそが、世界を媒介として精神の発展に大きく寄与するのである。 そしてここで、テラダが述べるように、ヘーゲルは奴隷を主人と奴隷の弁証法の主役の座に据える。なぜなら、「文化は奴隷を経由して進行する」からである。(ラウシュ、1999年。)
主人と奴隷の立場の逆転、そして幕切れへ
そこで主人と奴隷の立場が逆転するのは、奴隷が労働を通じて自己を意識し、自己のために存在するという認識に達するからである。
文化的に形成された活動において、「自己のために存在すること」は、彼自身にとっての「自己のために存在すること」となり、彼自身は彼自身の中にあり、彼自身のために存在するという意識を獲得する。
この回復を通して、彼は自分自身を通して自分の心を獲得するようになり、そして彼は部外者の心しかないと思われていた労働において、まさに獲得するのである。
奴隷は、「怠惰な」主人が二重の依存的状況に陥っていることに気づく。主人は奴隷から物を消費し、その独立した意識は、認識のために奴隷に依存する。自己決定と自由の意識の両方を達成するのは、主人よりもむしろ奴隷なのだ。次のイポリットの有名な一節は、このような立場の逆転という意味で理解されなければならない。
それは本質的に、主人の真実が、彼が奴隷の奴隷であることを明らかにし、奴隷が主人の主人であることを明らかにすることにある。
ここで主人と奴隷の弁証法の舞台は幕を閉じ、もう一方の相手を捨てた後、奴隷の意識は倫理的世界に飛び込み、ストア派と懐疑主義の中で自由を体験することによって幸福な意識として現れる。
続きの第2幕は以下のリンクを参照ください。
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