幼な子の創造的忘却:ニーチェ哲学における夢とその解釈
獅子には何がなせて、何がなせないのか
「しかし、わが兄弟たちよ」のこの「しかし」は、2500年以上の歴史を捨てきれない人類の象徴である。ここまで築き上げてきた歴史、発展、功績をなぜわざわざ捨てなければならないのかという、あまりにも人間的な「しかし」の使い方である。オーストリアの偉大な経済学者シュンペーターが「破壊的創造」、つまりイノベーションと呼んだのは、この捨てる勇気である。新たな革新的創造のために、これまで築き上げてきたものを破壊する覚悟があるか?
獅子ができることは、既存の価値に対する否定と抵抗であり、この否定の力によって、獅子は自由を享受することができる。これがヨーロッパの精神的発展のプロセスである。古代ギリシアから中世に至るまで、宗教的な価値観からの支配や命令に従うという重荷を背負うことが、理想的な人間像であった。しかし、宗教的な束縛から精神の自由を享受し、人間と神との戦いに勝利して自律と独立を獲得できるのは、獅子だけである。長年にわたる戦いを経て得られた自律と独立を手放す覚悟があるか?
そのもう一方で、獅子にできなかったことは、確かに新しい創造である。新しい価値観の創造、無邪気さの創造、忘却の創造、新しい始まりの創造、遊びの創造、そして幼な子にできる聖なる「然り」である。
でもなぜ?これは人類の心からの叫びである。ツァラトゥストラの仮面を被ったニーチェの答えは、神が死につつあり、危篤状態にあるからである。神から見れば、彼は成熟期を迎え、今は死の衰退期にある。末期ガンか何かだろう。とにかく「神は死んだ」のではなく、瀕死の状態なのである。
神の死が宣言された後、獅子が展開すべきは、聖なる肯定の力によって、古いものに代わる新しい価値を創造することである。そうでなければ、獅子がその死を見届けいている神となり、いずれにせよ老衰死するか殺されるかの運命にあることを意味している。なぜなら、価値観の可能性を否定することは、獅子に何の根拠も残さないからだ。つまり、「汝、なすべし」と他人に言い続ける強奪の破壊者として居座り続けることとなり、「奪取する獅子」のままでいる危険性がそこにはあるのだ。幼な子への第三の変身への準備はできているか?
幼な子の意志、創造、そして忘却
でも、どうして?なぜ幼な子なのか?これはあまりにも人間的な質問だ。幼な子は、罪悪感もなく、過去のしがらみに縛られることもなく、命令に背く方法も知らずに、森や海や空のような広大なスペースに自分の価値を創造することができる。幼な子は無邪気で忘れっぽく、いつでもやり直せる純粋さと自由さを持っている。これが幼な子の非-直線的時間性である。否定すべき過去はまだない。新しい創造の幸福を持ち、今この瞬間[instant]の行動にのみ集中している。つまり、そこには他者を必要としない自己承認がある。
幼な子の意志と獅子の意志の違いは、それが動的か静的かである。獅子の安定した意志とは異なり、幼な子の意志は意志を意志すること[to will the will]であり、世界の存在を創造できるのはこの動的な意志である。「であること」から「になること」への変容を生み出すことができるのは、この幼な子のダイナミックな意志であり、それは今ここにある空間や時間の「外側」、すなわち非-直線的な先にある未来に進んで行く意志なのである。
幼な子は、目的も罪悪感もなく、偶然ここでダンスと遊びのお祭りを開催する。幼な子は意味のない世界を肯定しようとする意志を持っているので、意味のない現実を創り出し、創り出したものを忘れて、新たに自分の世界を創り出そうとする。このすべてが重要なのは、すべてが同じだからだ。それと同時に、すべてが同じなのだから、重要なものはひとつもない。幼な子が創造する世界の親友になる準備はできてるか?
「でもなぜ?それでもなぜ?」それは、その「なぜ」と問うのをやめてほしいからだ!その代わりに、否定を超えた肯定のコツが身に付けられるように、「なぜ」という新たな問いを始め、いつまでもそしていつまでも問い続けてほしい。固定されていない場所に、離れずにそこに留まること。意味を1対1に対応さえて考えるような安易な解釈に走るのではなく、物事の虚無性[nihil]や、この無意味で惨めで不条理な世界を受け入れろということ。
これが幼な子の成熟であり、獅子とは違って、拒否の対象や否定はもはや必要ない。これこそ、創造と忘却を繰り返すことによって、他者も目的も意味もなく自己を乗り越え、そして承認する道なのだ。と、この注釈の著者はニーチェの仮面を被ってかく語りき。
幼な子の真剣な夢とその時間性
「獲物のようにではなく、友のように[nicht einer Beute gleich, sondern einer Freundin]」。破壊者である獅子の特性が、幼な子を懐胎することを可能にする。獅子の聖なる「否」が、幼な子遊びの聖なる「然り」を生み出すのだ。
しかし、獅子の聖なる「否」には何かが欠けている。強烈な真剣さである。幼な子は遊びをとても真剣に捉えている。創造のための素材を自ら生み出し、独自の世界を創造し、ためらいも目的もなくその世界の物事を新しい方法で再編成する。その意味で、幼な子の遊びの反対は現実ではない。重要なのは現在であり、現在を超越的な「過去」と関連づけることなく、未来と関連づけることである。この忘却によって、世界は突然変容し、ありとあらゆるアイデンティティを実現することができる。この意味で、量子力学で、水に落とした拡散していくインクが元の状態に戻る確率が決してゼロではないのと同じように、獅子に戻る(そして忘れられる)確率は非常に小さいが、ゼロとは言えない。幼な子の遊びは、人生の不可逆的な過程を可逆的なものに変える。
ギリシャの哲学者(プルターク、ヘラクレイトス、あるいはアリストテレスのいずれかであるはずだが、どうでもいい)の有名な言葉に「目覚めているとき、私たちは共通の世界を共有しているが、夢を見ているときは、それぞれが自分の世界を持っている」というものがあり、またフロイトが「無意識の中に 『否』を発見することはない」と言っていたように、幼な子ができることは、夢を見ることに近いのではないかと私は思う。
夢の中では他者性がないため、互恵性はもはや必要なく、無意識のうちに新たな視覚イメージと発話が創造されるだけであり、そこに世界の突然の変容を見るのは理にかなっている。酔っぱらったツァラトゥストラは歌い、後に夢解釈のように口走った歌詞を解釈するが、夢は自分の世界であり、自分の世界が夢なのだから、幼な子には夢解釈などできない。
しかも、幼な子はツァラトゥストラと違って、新しく始めることができる忘れっぽさがあり、アイデンティティの突然の変容が起こるので、繰り返し自分自身の素材を生成して、再び自分自身の世界を創造する。その強烈な真剣さによる時間性のない独自の世界。
喜劇の中のレーニンは幼な子に「なる」夢を見るか
幼な子は大きくなろうとする意志を持っているのだろうか?この問いに、幼な子はただ笑うだろう。でも、なぜ?なぜ笑うのか?なぜなら、疑問を持つのをやめさせ、新しい「なぜ」を何度も何度も問い直すように仕向けるからだ。
幼な子には、過去にまつわる状況を作り出す時間はないが、現在に真剣に集中することで、多くの未来のイメージを構築する時間性はある。しかしそのイメージは予見することができない。予見できる未来は未来ではない。だからこそこれらの未来は、間違いなく新しいものを「衝撃的」に感じさせる。しかし、どれも同じであるため、どれも重要ではなく、同時に、どれも同じであるため、どれも重要である。重要であろうとなかろうと、すべては同じなのだから。
創造の新たな始まりのために、忘却を得る準備はできてるか?幼な子になるということは、自分が人間であることをさえ忘れることであり、自分がまだあまりにも人間であることを忘れることだ。幼な子になる準備はできているか?
就寝前の読書の数ページを読み終えると、レーニンはさっきまで読んでいた本が「なにをなすべきか」と問いかる夢を見る。そして彼はこう答える。「第三の変身に終止符を打ち、第四の変身に踏み出す。」と。しかし、ニーチェは、知識の直線的統一性を明確に否定している。永遠に同じものが戻ってくるという循環的な統一性の力だけを残しているので、そこに第四の変身は存在しない。
【参考文献】
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