マガジンのカバー画像

図書館司書の短編小説紹介

19
図書館司書として多く本を扱って来た中で、一人でも多くの方と楽しみや感動を共有したいと感じた短編小説を紹介しています。
運営しているクリエイター

#随筆

「鵠沼西海岸」阿部昭著

「鵠沼西海岸」阿部昭著

 書き手である男性が、三十年来住んだ鵠沼について記した一作。
 戦争は終わったものの、男性の家には「ひとつの不幸が居すわりつづけ」ていた。
 戦争神経症だろうか、正気を失った兄がいたのだ。
 夕暮れになると、この兄のうったえるような泣き声が、まだ少年だった男性の遊び場である路地にまで漏れてくるのだという。
 そのため、彼の家には誰も寄りつかなかったのだけれど、一人だけ例外があった。
 近所に住む少

もっとみる
「雛」幸田文著:図書館司書の短編小説紹介

「雛」幸田文著:図書館司書の短編小説紹介

 人を動かすには理詰めで説き伏せるのと、情に訴え掛けるのと、どちらが有効なのだろう。
 「できる上司」の心構えが書かれた自己啓発書にありがちなテーマだけれど、本作を読んでまず考えたのがそのことだった。
 
 主人公の女性は、一人娘のためにできる限りの、いや身の丈を過ぎるほど精一杯に贅を尽くした雛祭りを行いたいと決意する。
 そのために分不相応なほど高価な雛人形を買い求め、子供用の座布団やお膳やお椀

もっとみる
「昼の花火」山川方夫著:図書館司書の短編小説紹介

「昼の花火」山川方夫著:図書館司書の短編小説紹介

 真夏の昼下がり、主人公は四つ年上の女性と母校の高校野球の観戦に向かう。
 野球場の席に腰を下ろした時、彼はふと今隣に座る女性と参加した、花火大会の夜に見た光景を思い出す。
 あるビルの屋上から、外国人の幼い少女が夜空に咲き乱れる花火に向けて手を振り、大声に叫んでいる姿があった。
 成人した後まで、彼女はこの夜のことを覚えているだろうか、と彼は考える。大人になった彼女は、花火のことは覚えていても、

もっとみる
「麒麟」谷崎潤一郎著:図書館司書の短編小説紹介

「麒麟」谷崎潤一郎著:図書館司書の短編小説紹介

 聖人が世に生まれる時、伝説の聖獣である「麒麟が現れ、天には和楽の音が聞えて、神女が天降った」という。
 その聖人こそ、本作の主人公孔子だった。
 旅の途上で彼は衛の国に立ち寄り、その君主霊公と治世について語り合う。
 霊公は、孔子の教えにより理想の政治について心を傾け始めた。
 けれど、霊公の南子夫人は贅を尽くした料理や酒、宝玉や稀少な香、また酷刑を施される罪人の姿により孔子を惑乱させようとする

もっとみる
「鯉」火野葦平著(講談社文芸文庫『自然と人間』所収)火野葦平著:図書館司書の短編小説紹介

「鯉」火野葦平著(講談社文芸文庫『自然と人間』所収)火野葦平著:図書館司書の短編小説紹介

 筑後川で鯉を素手で捕まえ、それを見世物にしている名人があった。
 土地の大地主である佐々木の旦那が、小さな頃から水練と漁が好きだった彼の技術を職にまで引き上げてくれたのだ。
 そのお蔭で彼は、死んだ父の借金を返し、家族を養うこともできた。
 戦前の観客は、趣味人や数寄者といった裕福な人が多く、彼は誇りを持って漁をしていた。
 けれど、戦時中は威張りかえった軍人や役人の観覧に供せられ、そこに言語を

もっとみる
「人形」小林秀雄著(文春文庫『考えるヒント』所収):図書館司書の短編小説紹介

「人形」小林秀雄著(文春文庫『考えるヒント』所収):図書館司書の短編小説紹介

 本作は、ほんの三ページの小随筆に過ぎないのだけれど、もっとずっと長い、上質の小説を読んだ時のように、余韻がいつまでも胸にこだまし続ける作品だ。 

 著者が、急行の食堂車で遅い夕食を食べていた時のことだ。四人掛けのテーブルの前の空席に、「六十恰好の、上品な老人夫婦が腰をおろした」。
 その夫人は食事の間、垢染みた顔の人形を横抱きにし、「はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き

もっとみる
「夏のアルバム」(講談社文庫『随筆集春の夜航』所収)三浦哲郎著 :図書館司書の短編小説紹介

「夏のアルバム」(講談社文庫『随筆集春の夜航』所収)三浦哲郎著 :図書館司書の短編小説紹介

 本作は短編小説ではなく随筆なので、短編小説案内としては番外編となるのだけれど、一読してふと思い出されることがあった。
 
 この小文の中で著者は、幼い時に祖母が亡くなった折、棺桶の中に向かって笑顔を送った、と書いている。
 こちらが笑い掛ければ、白い花の中の祖母も目を覚ますだろうと考えたのだ。
 幼さのために時宜を得ず、場違いな行動をとってしまったことは、おそらく誰にも経験があると思う。
 そし

もっとみる