「麒麟」谷崎潤一郎著:図書館司書の短編小説紹介
聖人が世に生まれる時、伝説の聖獣である「麒麟が現れ、天には和楽の音が聞えて、神女が天降った」という。
その聖人こそ、本作の主人公孔子だった。
旅の途上で彼は衛の国に立ち寄り、その君主霊公と治世について語り合う。
霊公は、孔子の教えにより理想の政治について心を傾け始めた。
けれど、霊公の南子夫人は贅を尽くした料理や酒、宝玉や稀少な香、また酷刑を施される罪人の姿により孔子を惑乱させようとする。
聖人である孔子は、その程度で仁徳を曲げることはなかった。ただ、顔の曇りを深くさせただけだ。
そして孔子が去った後、徳治に目覚めかけた霊公は南子夫人の豊満な魅力に溺れ、治世についての理想も何も見えなくなってしまう。
それを知っていた孔子は、このような言葉を漏らした。
「我未見好徳如好色者也」
われ未だ徳を好むこと、色を好むがごとく者を見ざるなり、と。
治世者にとっては、徳による支配が本人にとっても市井の民にとっても理想であるのは間違いない。
けれど大きな権力を持つ者は、好きなものを好きなだけ手に入れる力もまた持つ。そのために簡単に堕落してしまう。
権力を、自分を甘やかすのではなく、臣民のためだけに使える支配者がどれだけいるだろう。
想像の中で、その支配者の地位に自分を置いてみると、やはり徳治を行う自信はない。
たとえ住民に尽くした政策を行ったとしても、彼ら全員を満足させる施策は極めて難しく、不平を述べる人が出て来るだろう。
それを私が耳にしたら、「こっちがこれだけ頑張ってるのに……。もういい!」と、いじけて自分のやりたいようにやり出すのは目に見えている。
日本の政治について、いや世界の政治について、それぞれの国の人がそれぞれの国の政治家たちに不平不満を持つのも、こういったことがあるためだろう。
好色に耽るように、徳を為す。
権力者側だけでなく、民の側でも徳こそが最善だとの意識が行き渡っていれば、あるいは可能なのかもしれない。
とすれば、為政者が徳に基づいた善政をした時、それを全力で応援すれば、政治家の方もやる気が出て、好色ではなく徳に耽るようになってくれるのではないだろうか。
政治家がこちらが応援したくなるような施策を提示する。そして、私たちもそれを見極める力を身に付ける。
徳による政治の好循環を為すために。
とても難しいだろうな、と今の政治を見ていて思ってしまう。それでも、何とか希望を持ち続けないと……。