#23 音楽史⑱ 【1960年代中期】ビートルズがやってきた!ブリティッシュ・インヴェイジョンのインパクト
クラシック音楽史から並列で繋いでポピュラー音楽史を綴る試みです。このシリーズはこちらにまとめてありますのでよければフォローしていただいたうえ、ぜひ古代やクラシック音楽史の段階から続けてお読みください。
今回のあたりからはロックファンにとって一番アツいところに入ってくると思います。正直僕はロックはそこまで専門では無く、読んでいる方の中に僕よりも断然詳しい人がたくさんいると思います。さまざまな資料を参照しながら書いていますが、「今さらおまえが説明しなくてもいい」「もっとこういう部分に触れてほしい」「こう書かないとだめだ」などと思う方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ロック史単体というよりも、この記事シリーズが「クラシック史からそのまま続いて書いている」「ジャズ史などと並行で書いている」という部分に価値を見出していただければ嬉しいです。既存のロック史の切り口だと、クラシックは遥か遠くの昔の別ジャンルだし、ジャズやブルースはマエフリでしかなく、多分野を平等に知れるということは稀だったと思うので。そういう一視点として楽しんでもらえればありがたいです。
ブリティッシュ・インヴェイジョン
アメリカではロックンロールが廃れてティーンポップ旋風が巻き起こっていた一方で、イギリスでは50年代後半からリズム&ブルース、ロックンロールの人気は高まっていました。アメリカ人のアラン・ローマックスが自身のフィールドワークによって採集したブルースを流すラジオ番組もイギリスで始まりました。ロバート・ジョンソンやマディー・ウォーターズのような、デルタ・ブルース、シカゴ・ブルースといったアメリカン・ルーツ・ミュージック的な位置づけのブルースのサウンドに刺激されて、数々のバンドが結成されました。
一方、北部の産業都市マンチェスターや、近隣のリヴァプールでは、20世紀前半のアメリカのジャズ、ブルース、カントリー、フォークといったルーツミュージックが独自に融合したスキッフルというジャンルが流行していました。リヴァプールは港町ということもあり、輸入レコードがいち早く手に入るなど、アメリカ音楽の最先端の地となっていたのです。ここで、ロニー・ドネガンによるフォークソングのカバー「ロック・アイランド・ライン」が大ヒットとなり、イギリスの若者たちによるスキッフルのバンドがたくさん生まれることになりました。彼らの音楽は、その地域に流れるマージー川の名前をとってマージー・ビートとも呼ばれました。
こうしたリヴァプールの若者たちのスキッフルバンドのひとつとして、1957年にクオリーメンというバンドが結成されました。1960年に彼らは、「ビートルズ」に改名し、ライブ活動を広げていきました。1962年に「Love me do」でデビュー。1963年のセカンドシングル「Please Please Me」が大ヒットし、ビートルズは一気にトップ・スターとして躍り出ました。ファーストアルバム「Please Please Me」は全英アルバムチャート30週連続で1位、次のアルバム「With the Beatles」も1位独走と、イギリスでの人気が決定的なものとなりました。
1963年11月のシングル「I Want to Hold Your Hand (邦題: 抱きしめたい)」も発売と同時にUKチャートでナンバーワン・ヒットとなり、ラジオ放送を通じてアメリカでも火が付いたのでした。周到なプロモーション活動も功を奏し、1964年2月にはUSチャートでも1位に輝いたのでした。そして、2月7日、ビートルズはアメリカを訪問。「ビートルマニア」と呼ばれた熱狂的なファンに迎えられてニューヨークの空港に降り立ち、人気テレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」に3週連続出演して72%の視聴率を獲得。出演時間のあいだ、町から青少年の犯罪が無くなったというような伝説まで残しました。
ビートルズによってアメリカ進出への突破口を開かれたイギリスのバンドシーンは、次々と海を渡ってアメリカ上陸するようになりました。ビートルズに続いて2番目にエド・サリヴァン・ショーに登場したのはデイヴ・クラーク・ファイブでした。そこから、ビートルズのライバルとされたローリング・ストーンズや、キンクス、ザ・フー、アニマルズ、ヤードバーズ、ハーマンズ・ハーミッツ、ゾンビーズ、マンフレッド・マン、フレディ&ザ・ドリーマーズ、ピーター&ゴードンなどが短期間に集中してイギリスからアメリカへと上陸し、熱狂的に迎えられました。イギリスのバンドがアメリカ中を席巻したこの現象を「ブリティッシュ・インヴェイジョン(イギリスの侵略)」と呼び、アメリカの音楽市場を大きく塗り替えたのでした。
ガレージバンド
ロックンロールが誕生した50年代後半以降、アメリカでも「バトル・オブ・ザ・バンド」と呼ばれる音楽コンテストなどが流行していました。ロックンロールに刺激された若者たちは地元で仲間同士でアマチュアバンドを結成し、自宅の「ガレージ(車庫)」で練習を積んでいたのでした。このようなバンドは「ガレージ・バンド」「ガレージ・ロック」と呼ばれ、無数のバンドが結成されていたといいます。アマチュアなので当然、音楽としては単純で稚拙であり、商業的成功とは無縁で、決してメインストリームではありませんでした。60年代初頭のティーンポップの台頭で一度影を潜めたようにも見られましたが、サーフロックなどのギターインストの流行とも相まって、ギターという楽器は「アマチュアによって演奏されるもの」としてより一層人気が強まってもいました。そしてビートルズやローリング・ストーンズの登場、ブリティッシュ・インヴェイジョンによって、アメリカのガレージバンドも再び活気を取り戻すことなります。この動きがもう少し後の70年代パンクロックへと繋がっていくのですが、「専門の教育を受けていない若者によるDIY精神」「アマチュア性」がロックというジャンルの重要な特質になっていったことが、他のジャンルと違う、注目すべきポイントのひとつだといえます。
フォーク・リバイバルからフォーク・ロックの誕生へ
レイス・レコードによって原始的なブルースやカントリー(ヒルビリー)が顕在化したころである30年代、同時にアメリカ南部のトラディショナルな民謡の発掘・体系化が行われて広まり、40年代にはそれが政治性と大きく結びつき、ウディ・ガスリーやピート・シーガーによって社会運動的に歌われたのが「フォーク」。しかし、戦後の「赤狩り」の時代には、共産党との結びつきから、歌手たちの活動の場も大きく制限されていました。(→音楽史⑮ 1940年代)
アメリカ社会は50年代の保守的な時代を経て、60年代に入ると黒人の地位向上を働きかける公民権運動や反戦運動が盛り上がることになり、そんな社会に呼応するように「フォーク・リヴァイヴァル」も盛り上がることになります。この「フォーク・リヴァイヴァル」は1958年キングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」のヒットから1965年までの期間のムーブメントを指し、ティーンポップ全盛時代だった音楽業界の裏で、政治志向の強い大学生などに人気となったのです。歴史文化的な民謡であるトラディショナル・フォークと区別して、フォーク・リヴァイヴァルからうまれたフォークは「モダン・フォーク」「コンテンポラリー・フォーク・ミュージック」などということもあり、現在、アメリカ音楽史において単に「フォークミュージック」という場合、一般的にはモダン・フォークの意味合いになります。
フォークミュージックは反近代主義・反商業主義を掲げる音楽で、何よりも歌のメッセージや言葉の伝達が重要でした。エレキギターはテクノロジーの象徴であり、大音量のバンドサウンドは歌詞も聞き取りずらいため、「敵」とされていました。ビートルズに代表されるロックは商業主義のシンボルだったのです。
このようなシーンから登場したのがボブ・ディランです。ウディ・ガスリーやピート・シーガーに影響を受けて活動を始め、1962年にデビュー。翌年発表のセカンド・アルバムからのシングルカット「風に吹かれて」がヒットし、代表曲となりました。
しかし、アメリカのトラディショナルなフォ-ク・バラード「朝日の当たる家」をアニマルズがロックカバーして大ヒットしたことを受け、ボブ・ディランは1965年にアコースティックギターからエレキギターへと持ち替えてロックサウンドへの移行を進めました。同年のニューポート・フォーク・フェスティバルではボブ・ディランがエレキギターを持って登場したことに対して大ブーイングが巻き起こってしまいました。多くのファンが、アコースティックなフォークからロックサウンドへの転化を「裏切り」だと感じたのです。
しかし、ブリティッシュ・インヴェイジョンの影響を受けて、アコースティックなアーバンフォークからロックサウンドへと移行するアーティストやバンドは相次ぎました。「フォーク・ロック」というジャンル名称で呼ばれるようになり、ブリティッシュ・インヴェイジョンに対するアメリカの回答だとして讃えられることにもなったのです。1958年頃からのフォーク・リヴァイヴァルのムーブメントはこうして1965年に一旦収束し、「フォーク・ロック」の段階となりました。
ボブ・ディランのほかに、ザ・バーズがこの時期フォーク・ロックを牽引していった代表的なバンドです。ほかに、サイモン&ガンファークル、ザ・ラヴィン・スプーンフル、ザ・タートルズ、ザ・ママズ&パパズ、バッファロー・スプリングフィールド、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングなどがフォークロックとしてヒットしました。
音楽ジャンルとして「ロックンロール」から「ロック」へと変わっていったのがこのころです。両者を区別したうえで後者の「ロック」を定義づけるとき、「フォーク・ミュージックのスターが電化することで、反体制的・反商業主義的なイデオロギーがロックに受け継がれ、商業主義の枠内でそれを実践しようとするジャンル」だとされます。そしてその結果、ロックは商業主義の枠内でありながら商業主義を嫌悪し、体制的な構造の中で反体制的な価値観を主張するという矛盾を抱えることになったのです。
さて、フォーク・ロックの熱気は2年ほどで収束し、ブリティッシュ・バンドとともに、このあとロック史がさらに次の段階へと進むことになります。
生き残ったモータウン・サウンド
ブリティッシュ・インヴェイジョンによってアメリカの音楽市場は大きく塗り替えられ、それまで人気だったブリルビル系のティーン・ポップは急激に失速してしまいましたが、対してモータウン系は発達をつづけました。これは、ブリルビル系が「レコード」をプロデュースする「楽曲中心」の音楽産業だったことに対し、モータウンは「アーティスト」をプロデュースしていたからだといわれています。リード・シンガーに焦点を当てて「スター」を演出していたことで、ロック・スターの登場にも対抗することができたのです。ガール・グループが失速したのと対照的に、イギリスのバンド勢がアメリカのチャートを席巻した後もモータウンはヒットを量産し続けました。
ソウルミュージックは、モータウンに代表される北部のノーザンソウルと、スタックスに代表される南部のサザンソウルに分けられますが、北部のほうが洗練されたポップ的であり、南部のほうがディープなサウンドを産み出していました。それを、モータウンは「白人に媚びた商業的な音楽である」、スタックスは「黒人らしく、ソウルフルである」と評価される向きがありました。
しかし、実際はモータウンのほうがほとんどが黒人であり、スタックスには半分ほど白人のスタッフも関わっていたのです。ここに、リスナーの先入観と願望の存在が見て取れます。「黒人音楽は力強く、粗野で身体的であり、洗練とは無縁である。“ホンモノ”の黒人音楽は南部に存在する」というイメージが根付いてしまっていたのです。
60年代前半、ブリルビルとモータウンというそれぞれのポップサウンドの台頭とともに、「人種」よりも「世代」の分断が前景化し、ビルボード誌のチャートでは1963年に一度「黒人音楽」という区分けが消滅していました。しかし、ビルボードは1965年に「リズム&ブルース」のチャートを復活させます。これは、黒人コミュニティの音楽的志向がアメリカ社会全体からふたたび乖離し始めた、と業界が判断したからだといえます。ブリティッシュ・インヴェイジョンとその影響を受けたフォークロックなどによって、「ロックンロール」ではない「ロック」が誕生した一方で、黒人音楽の領域ではオーティス・レディングやアレサ・フランクリンなどの、「ソウルフル」なサザン・ソウルが人気となっていきました。
60年代後半にかけて「人種問題」がいよいよアメリカ社会の中で大きく渦巻くようすを、次回は取り上げます。
映画・TVドラマ音楽で進むポピュラー化
ヘンリー・マンシーニにつづいて、劇伴やTVシリーズでのサウンドトラックは、クラシカルなもの一辺倒から脱却し、ジャンルを越えた試みがなされるようになります。それをもたらしたのは、ジャズシーンでアレンジャーなどとして活躍していたミュージシャンの映画音楽参入が要因のひとつとして挙げられます。
ジョン・バリーは地方のジャズ・バンドや軍楽隊を経てプロデューサー・アレンジャーとなり、1962年からの「007シリーズ」のテーマでインパクトを与えました。
クインシー・ジョーンズは、少年期にはレイ・チャールズとバンドを組んでいたり、バークリー音楽大学卒業後にはカウント・ベイシー、デューク・エリントン、サラ・ヴォーンといったジャズ界の大御所たちのアレンジを手がけたりといった活動をしていましたが、1960年代からはプロデューサーとしても活躍し始め、さらに映画音楽にも参入したのでした。この段階では映画『夜の大捜査線』などのサウンドトラックが評判となったのでした。(クインシー・ジョーンズはのちにマイケル・ジャクソンのプロデュースも手掛け、アメリカのポピュラー音楽界における著名な功労者の一人となります。)
ラロ・シフリンもジャズを出自として、サウンドトラックに影響をもたらしたミュージシャンです。1966年からのテレビシリーズ「スパイ大作戦( Mission: Impossible)」のテーマは非常に有名です。
フリー・ジャズ
前回紹介した通り、1960年代のモダン・ジャズの情勢は、ソウルフルな「ファンキー・ジャズ」の人気と、機能和声からの解放へと向かった「モードジャズ」の二つの潮流があるといえます。そうした中で、商業的な成功を度外視し、先鋭的な表現を求める動きもさらに加速していました。リズムやハーモニー、調性にとらわれず、ひたすら自由に演奏するというフリー・ジャズが誕生することになります。自由度が高すぎるため、演奏者にかなりの力がないと単なるデタラメに聴こえてしまうという危険性も孕んでいました。
これはクラシック史で、ロマン派からの脱却を追求した結果、近代音楽の誕生から時間を待たずにシェーンベルクの「無調音楽」「現代音楽」に行き着いてしまったのと同じ現象のように思えます。既存の方法から脱却し革新を求めた結果、前衛に行き着くというのは一つのパターンなのかもしれません。
代表的なアーティストはオーネット・コールマン、チャーリー・ヘイデン、ドン・チェリー、ローランド・カーク、アルバート・アイラー、セシル・テイラー、スティーブ・レイシー、ファラオ・サンダースなどです。
「フリー」の意味するものはそもそも、音楽理論・音楽手法的な「モダン・ジャズ、モードジャズあたりからの自由」という意味でしたが、同時に絵画における表現主義運動や、公民権運動といった社会運動とも結びつき、「自由を求める改革運動全般」とも繋がったムーブメントとなっていたのでした。
ミニマル・ミュージックの誕生
一方、前衛主義すら極めつくされてしまっていた当の「現代音楽」界。
楽譜に「直線を描きそれを辿れ」「火をおこせ」「蝶を放て」と書かれた作品や、演奏者がピアノを一番近い壁まで押し、壁を越えて押していけるなら、押し続け、疲れ果てたら一度休んで放尿することが指示されている作品など、ジョンケージの「4分33秒」以降、ベートーヴェン以来のクラシック音楽の最低限の定義となった「楽譜作品である」というただ一点を保って、ひたすら「新規性」を追求する大喜利合戦が続いていました。
しかし、1960年代には行き詰まりからの極端な反動が巻き起こりました。音の動きを最小限に抑え、パターン化された音型をひたすら反復させるミニマル・ミュージックという音楽が誕生したのです。
テリー・ライリー、スティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラス らが代表的な作曲家です。
テリー・ライリーの「In C」は、音型が用意され、それを繰り替えす演奏者が各自のタイミングで次の音型へと進めていく演奏方法をとります。
スティーブ・ライヒの「It's Gonna Rain」「Come Out」は、テープ録音された人間の声を反復させた実験作品です。
このような音楽の発生は、このあとのロックやジャズ、ファンクなどのポピュラー音楽のサウンドへも大きな影響与えることになります。さらに、アンビエント音楽や、ミニマル・テクノ、エレクトロニカの源流ともされています。
こうして、分裂しすぎてしまった「クラシック」と「ポピュラー」が、この時期にそれぞれの分野での「前衛化」という領域で新たに繋がりを持っていったといえるでしょう。