【分野別音楽史】#08-5 「ロック史」(1980年代)
『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。
1970年代までのロック史は、様々な本やウェブサイト、ロックファンの方の紹介などを見ていても、おおむね共通見解があるように感じますが、80年代のロックに関しては、人によって触れられる分野にバラつきがあるように感じます。
ロックというジャンルを「当事者」として捉えている方にとっては、どうしても「商業化」を過度に嫌う視点になってしまう傾向があるのかもしれません。
ここでは、ポストパンク~AORなどからHR/HMなどまでの範囲を80年代としてまとめてみたいと思います。
◉AOR・AC・ソフトロックなど
80年代はデジタル機器が登場し、ソウル~R&Bの分野ではブラック・コンテンポラリーと呼ばれるムーディーなポップスが流行しました(このあたりはロック史とは別の記事にする予定)。
同じような方向性の、大人向けの洗練された傾向として、ロックミュージックサイドの潮流となっていたのがAORです。
これは「アルバム・オリエンテッド・ロック(Album-Oriented Rock)」、もしくは「アダルト・オリエンテッド・ロック(Adult-Oriented Rock)」の略語で、欧米では「シングルチャートを意識したものではなく、アルバム全体としての完成度を重視したスタイル」の意味で「Album-Oriented Rock」の語が使用され、日本では「大人向けのロック」「アダルト志向のロック」の意味で「アダルト・オリエンテッド・ロック」として紹介されたものです。アダルト・コンテンポラリー(AC)とも呼ばれ、定義的にはソフトロックとも重複しています。1970年代後半から1980年代にかけてヒットが多発しました。
スティーリー・ダン、ボズ・スキャッグス、フリートウッド・マックらによって潮流がつくられ、ボビー・コールドウェル、ビリー・ジョエル、バーブラ・ストライサンド、ニール・ダイアモンド、クリストファー・クロス、TOTO、ルパート・ホルムズ、シカゴなどが代表例とされています。80年代のサウンドはブラック・コンテンポラリーと同じくシンセサイザーの音色が時代を反映しているサウンドと言えます。
◉ポストパンク/ニューウェイヴ
◆ポストパンクの発展とニューウェイヴへの結合
70年代後半に一大ムーブメントとなったパンクロック。特にイギリスのロンドンパンクによる「アマチュア性を持った原点回帰によって、新世代のロックが既存のロックに反抗する」という動きが生まれていました。
その動きは次第に、同時にファンク、レゲエ、テクノなどの新しい音楽を取り入れるという方向の動きへと結びついて展開していくことになります。
70年代末~80年代にかけて、このような音楽的実験に貪欲に取り組んだイギリスのインディペンデントなロック音楽の一部に対して「ポストパンク」というジャンル名で呼ばれました。
同時に、ディスコ、電子音楽などの影響によるポストパンク周辺の音楽を「ニューウェイヴ」というジャンル名でも呼ばれるようになり、80年代アメリカへの進出に成功しました。ポストパンクやニューウェイヴは、今では1970年代後半から1980年代という特定の時期の音楽を指す言葉となっています。
当時の音楽評論家にとって「ポストパンク」は、それまでの旧態依然としたロックの否定を出発点としているため、レゲエ、ファンク、フリー・ジャズ、アラブやインド、アフリカなどの民族音楽を取り入れるなどの音楽的チャレンジに取り組んだバンドが特徴とされていましたが、一般的には単に新しいサウンドの印象として全体的に「ニューウェイヴ」と呼ばれました。
シンセポップやノイズミュージックもこの分野に括られることもあり、非常に定義が曖昧なジャンルですが、「初期衝動だけだったパンクが、技術的に上達し、アートなどの美意識を高めていったバンド」が認識され、音楽評論家たちのレッテルによって定義づけられ、この潮流のイメージを作っていったと言えば良いでしょうか。音楽内容的に範囲が多岐に渡っているため、ジャンルとしては捉えづらいですが、単なる時代区分として集合的に捉えるべきでしょう。
まずセックス・ピストルズを脱退したジョン・ライドンが結成した、パブリック・イメージ・リミテッドや、ザ・ポップ・グループが「ポストパンク」として評価され、さらにトーキングヘッズ、ジョイ・ディヴィジョン、ギャング・オブ・フォー、マガジン、スージー&ザバンシーズ、ワイヤー、ザ・キュアー、ザ・フォールらもポストパンクの潮流に位置付けられます。
「ニューウェイヴ」はXTCやスクイーズといったバンドを紹介するための語として使われ始めたそうです。さらにダイアー・ストレイツやポリス、エルヴィス・コステロ、ゲイリー・ニューマンらのUKアーティストがアメリカでチャートインするようになっていきました。アメリカのバンドではディーヴォやカーズ、The B-52's などもニューウェイヴのバンドとして人気となりました。
イギリスのバンド勢はアダム&ジ・アンツ、デュラン・デュラン、ヴィサージ、カルチャー・クラブなどが80年代前半に登場し、ニューウェイブの派生ジャンル「ニューロマンティック」として認知され、アメリカのチャートの上位を多数占めるようになったり、当時開始した音楽チャンネルのMTVでも放映されるようになりました。これが「第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン」と形容されました。
70年代にイギリスにおいてミュージックビデオは既に重要な商材になっていた一方で、アメリカでは聴衆の断片化やディスコ音楽への反動など、いろいろな事情を抱えていたためにあまり発展していませんでした。そのため、MTVの開局時にはイギリスのアーティストによる豊富なミュージックビデオを流されることになった、という背景もあったようです。
バグルスの「ラジオ・スターの悲劇」は、アメリカでMTVが最初に放送したビデオで、その楽曲の内容も、映像時代の到来を反映するような象徴的なものとなりました。代表的なアーティストには他に、ヒューマン・リーグ、ABC、バウ・ワウ・ワウ、ジャパン、デペッシュ・モードなどがいます。ジョイ・ディヴィジョンを前身として、よりエレクトロ・テクノへと接近したニュー・オーダーというバンドも登場しました。
このように、多様な方向性の中でも特にニューウェイヴの中心的ムーブメントとなっていた電子的サウンドはシンセポップまたはエレクトロポップなどと呼ばれました。シンセサイザーやシーケンサーなどの電子楽器を中心に据えたバンド音楽で、ロックと電子音楽の中庸とも言える形態です。
日本ではこれを「テクノポップ」や略して「テクノ」などと呼びますが、クラブミュージックのジャンルとしてのテクノとは別の概念になるので注意が必要です。この分野では、ノルウェーの「a-ha」や、日本からは坂本龍一らによる「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」も世界で成功しました。
「ラスト・クリスマス」でおなじみのイギリスのポップデュオ「ワム!」もこの時期活躍しました。位置付けが難しいものの「ポップ~AOR/AC~ニューウェイヴ」などの分野とされました。
◆女性シンガーたちの活躍
シンガーソングライターも、従来のソフトロックの路線だけでなく、ニューウェイヴやシンセポップ・ロックのサウンドで活躍した人々が登場しました。
R&Bの分野ではマイケル・ジャクソンが「キング・オブ・ポップ」と呼ばれましたが、同じように「クイーン・オブ・ポップ」と呼ばれたのがマドンナです。当初はマリリン・モンローに続くセックスシンボルのイメージを強く出していましたが、次第に歌手として多様な世界観を見せて多くの成功を収めました。
シンディー・ローパーは、デビューアルバムから4曲連続トップ5入りした初の女性ソロ・アーティストとなりました。
カイリー・ミノーグやデビー・ギブソンもこの時期に登場した重要な女性ポップ・シンガーです。
◆パンクから派生した様々なスタイル
この時期に活動したイギリスのロックバンド「ザ・スミス」もUKインディーとしてポストパンク的に位置付けられるでしょう。ただ、イギリス国外では当時はあまりヒットせず、イギリス国内の若者のみのヒットでした。ところが、彼らはこの後90年代に台頭してくるロックバンドたちに多大な影響を与えました。このことから、今日では80年代イギリスの最も重要なロックバンドのひとつとして認知されています。
1980年デビューのアイルランドのバンドである「U2」は、ポストパンク・ニューウェーブの時代には異質の存在とされたバンドでしたが、その後90年代にかけて世界的なアーティストへと成長していきます。
また、アンダーグラウンドなシーンではハードコア・パンクというジャンルが誕生していました。パンクロックからさらに暴力性や攻撃性を強調したラウドで荒々しいサウンドが特徴のジャンルで、1980年代においては情報量の少なさやマイナー・レーベルのレコードの流通の悪さが顕著な極めてマイナーなシーンではありましたが、この分野も後のロックに大きな影響を与えることになります。ブラッグ・フラッグやバッド・ブレインズがこの時期のバンドとして挙げられます。
◉HR/HM
◆NWOBHM
70年代後半のパンクの登場や、その後の80年代のポストパンク・ニューウェイヴなどの台頭によって、70年代前半に勢いのあった従来のハードロックやプログレッシブロックは、「オールド・ウェイヴ」「ダイナソー・ロック(恐竜のような大仰で化石化したロック)」と攻撃されてしまいました。
イギリスのハードロックシーンはかつての勢いを失っていきましたが、しかしアンダーグラウンドシーンでは様々なバンドが(一部ではパンクのビートの性急感をも取り入れながら)新しい時代のハードロックを模索するようになっていました。
これが「NWOBHM(ニューウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル)」という「新しいHR/HM」を更新していくムーヴメントとなります。アイアン・メイデン、デフ・レパード、サクソンらがこの動きを牽引し、ハードロックシーン・メタルシーンが活性化していくことになります。他にはサムソン、ダイアモンド・ヘッド、エンジェル・ウィッチ、ヴェノム、グリム・リーパー、タイガース・オブ・バンタンなどがNWOBHMのバンドとして挙げられます。
◆グラムメタル
さらに、わかりやすいサウンドでハードロックの王道を行くヴァン・ヘイレンのヒットを皮切りにモトリー・クルー、クワイエット・ライオット、ラットといったバンドが登場し、グラムロックのように派手なルックスと煌びやかなパフォーマンスを売りにした「グラムメタル」というジャンルで認知されて成功しました。
グラムメタルのうち、80年代初頭の西海岸から台頭してきたバンドを日本では「LAメタル」と呼んでいます。しかし、すぐにLA以外からもバンドが登場したため、この日本独自の分類に厳密性はないようです。イギリスのバンドではホワイトスネイクなどが挙げられます。
1980年代中期にはさらにポイズン、ボン・ジョヴィ、シンデレラなどが登場したほか、70年代から活動するベテランバンドも、グラム・メタル風の見た目を取り入れる傾向になるほどのムーブメントとなりました。そして80年代後半、この動きの末期に「真打ち」のように登場したバンドとしてガンズ・アンド・ローゼズやスキッド・ロウが現れました。
このようなバンドは、スタジアムやアリーナなどの大会場で派手なパフォーマンスを行い、音楽性は商業的な傾向だとされたため、しばしば「スタジアム・ロック」「アリーナ・ロック」というジャンル名で揶揄されています。
◆エクストリームメタルなど
一方で、HR/HMのような激しい音楽に共感するものの、グラムメタルのようなダイナミックな華やかさとは違ったサウンドを志向する人々もあらわれます。
彼らはイギリスのNWOBHMムーブメントに共感しながら、ハードコアパンクにも影響を受け、テンポの速さ、リフに重きを置いた強烈なサウンドが特徴の「スラッシュ・メタル」というジャンルを開拓し、グラムメタルとは一線を画する存在となりました。
スラッシュ・メタルは、メタリカ、メガデス、スレイヤー、アンスラックス、エクソダス、テスタメント、ソドム、デスエンジェル、フォビデゥン、ヒーゼン、ラーズ・ロキットなどのバンドが挙げられます。
フロリダでは、スラッシュメタルの凶暴性を突き詰めたデスメタルが誕生。デス、オビチュアリー、モービッド・エンジェル、ディーサイド、カンニバル・コープスなどのバンドが登場しました。
北欧ノルウェーでは、デスメタルを否定し反キリスト教のコンセプトを強調したブラックメタルが誕生。マーシフル・フェイト、セルティック・フロスト、バソリー、エンペラー、メイヘム、バーズム、ダークスローン、ウルヴェルなどのバンドが登場しました。
さらに、高速化するメタルの潮流の中で、逆に遅さを強調することによってダウナーでヘヴィーなサウンドを志向するドゥームメタルも誕生。ウィッチファインダー・ジェネラル、エンジェル・ウィッチ、トラブル、ペンタグラム、セイント・ヴァイタス、キャンドルマス、カテドラルなどのバンドが登場しました。
これら
「スラッシュ・メタル」
「デスメタル」
「ブラックメタル」
「ドゥームメタル」
を合わせて
「エクストリーム・メタル」とも呼ばれます。
また、荒々しいサウンドに対する反動として、ドイツやスウェーデンなどではメロディアスなパワーメタルというジャンルも生まれました。
アンヴィル、エキサイター、ハロウィン、ハンマーフォール、ドラゴンフォース、アイスド・アース、パンテラ、レイジ、ランニング・ワイルド、グレイヴ・ディガー、ブラインド・ガーディアン、キャメロット、マノウォー、メタル・チャーチなどのバンドが居ます。
NWOBHMの影響下にあり、高速で技術的な側面も重視されるため、それらを含めて高速なメタルジャンルはスピードメタルとも呼ばれます。
さらに、ハードコアパンクからの派生として、デスメタルなどが再び結びつき、グラインドコアというジャンルも生まれます。グラインドコアはそもそも、ハードコアバンドのナパーム・デスの1986~88年ごろの音楽性を指す言葉として登場し、スネアやシンバルを高速で叩くブラストビートを特徴とします。
このように、メタルでは地域性・コンセプト・速度・音色や、アーティストの一時期の音楽性などまでを細かくネーミングしてサブジャンル化していったことで独特の生態系ができあがっていったのでした。
◉ミクスチャーの潮流の誕生
ニューヨークの「ビースティ・ボーイズ」は、パンクバンドとして活動を開始したバンドですが、1984年頃からヒップホップに完全移行し、ヒップホップグループとして認知され成功しました。「ヒップホップとロックの融合」「ラップ・バンド」という分野の開拓者となりました。
このように、ヒップホップというジャンルが新しく登場した中で、ロックのトピックとしてもそれを取り入れる動きが誕生します。
LAメタル/グラムメタルやスラッシュメタルなどが栄えた動きの裏で、レッド・ホット・チリ・ペッパーズがこの時期登場し、90年代にかけて活躍していくことになります。ファンクとハードロックやパンクを混ぜ合わせた「ミクスチャー・ロック」の開拓者として、90年代以降のバンドに多大な影響を与えました。
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