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船に乗るということは、つまり漂流するということだから、それは百歩譲って仕方がないことだ。ただでさえ憂鬱なのに、この船の航海士ときたら、まるで他人の気持ちなどに思いを巡らせたことがないような真っ青な顔をしていて、わたしはあの亡霊めいた男のつめたいまなざしが目に入ると、朝晩生きた心地がしないのだった。 ああ、あの男は嫌いだ。ああ厭だ厭だ。 水平線から知らぬ顔の朝日がやってくる。もうすぐ朝食の時間が来てしまう。いまさら胃にも残らない呪詛を吐いたってなにもかも手遅れ。わたしたち
「大丈夫」って君は言うけど、何が? 僕からしたら大体なにもかも同じ。だから今、君に言うべき言葉を頭の中で考えている。 心は裏腹でも身体は動くし、今日も夜が来る。大丈夫だよ、僕は君がしきりに繰り返すその言葉を、信じることができない。本当はどうでもいいから、いつもそんなことしか言えないんだろう。 誰も彼も気持ち悪いから、いいかげん傷つけてやりたかった。君のことなんか嫌いだと、はっきり突きつけてやるつもりだったんだ。けれど口から飛び出したのはまったく違う言葉だったから、僕が一
積み木をしようか、ちいちゃん。 はい、これが積み木。君とぼくだけの、なんだって作れるすばらしい魔法の煉瓦だよ。君とぼくの積み木はチーズみたいな、ちいちゃんの好きなやさしい黄色をしているね。おいしそうだね、けれど食べられない。舐めるとバターの味がするけど、けしておいしいからと言って食べてはいけない。ぜんぶ食べちゃったら、さすがになにも作れなくなってしまうから。 さあなにか作ろう。なにがいいかな。ちいちゃんの好きなお城がいいね、お城にしよう。柱をたてて、屋根をつけて、バルコ
昔々あるところに、偉大な王様がおりました。その国はとても豊かで、たくさんの人々が幸せに暮らしていました。王様のお妃様はたいそう美しく、お子様達も可愛らしいと評判でした。ある日、王妃様が身ごもりました。生まれた子供はそれはもう、たいそう可愛い女の子です。 そして――王様は、生まれた姫を「んぎょうひめ」と名づけました。 ある日、年頃になったんぎょうひめは、大変なことに気がついてしまいました。 「姫様、お茶でございます!」 「姫様、ピアノのお稽古の時間ですわよ」 「姫様、お
彼女はひどく冷たい眼をしていた。曇り硝子のような、無機質で、無感情なまなざしだ。それがどうにも不気味だったらしく、僕は曖昧な笑みで返すしかなかった。 僕にとって彼女というものは、とても大切な存在だったはずだ。少なくとも、僕がこうして部屋に帰ってきている以上、ほんの数時間前まではそうだったに違いない。それなのに、彼女に対して今どのような感情を抱けばいいのかが、まるでわからずに混乱していた。 「だれ?」 彼女の唇が動くのをみて、ああ、やっぱりこの子はぼくの知るあの子なのだと
透明な傘の下で雨に濡れることを忘れていた。私は何も知らなくていいと、あなたが口を噤んで微笑む。砂は落ちてゆく。あなたは言う、もうすぐ夜が来るよと。夜はあなたに似合う言葉ではないから、あなたにこそ似合わない言葉を私は探し続けていた。あなたは静かに目を伏せて、私は雨音が響く中、そっと耳を塞ぐ。砂時計は緩慢に音もなく降り積もってゆく。 世界が息絶えて眠りはじめるまで、あなたの目蓋に、頬に、睫毛に触れて居たくて手を伸ばせば、魚のようにするりと消えてしまうのだろう。透明で硬質なこの
きみがぼくの指先にふれて、「すき」と書いたその日を誰かが境界線にして、世界が変わったのだと思う。それはぼくたちの産声であると同時に、世界が根絶されだしたことも示していた。ぼくらの眼にはふたつの色が映る。世界を彩る鮮やかな赤と、世界を塗りつぶすような真っ黒な青だ。 空に眼を凝らす。青のなかには光る点がいくつか見えるのだけど、どれもぼやけてしまってよく見えない。赤い瞳は青く濁ることもない。だから、空に散らばる点のなかで、きみを見つけた。きみは泣かない子どもではなかったのだと、
わたしは貴方のものになりたかったのだけど、結局最後までなれないままだった。あの日貴方を刺したのは、わたしではなく、貴方の影法師、貴方のまぼろしだと思っていたかった。 今更になって、やっとわかった。貴方にわたしを救うことなんて無理だった。 わたしの影を踏み躙りながらでないと、貴方はまともに歩くことすら出来ない。貴方の影にしかなれないわたしには、責めることすら許されない。貴方とわたしの間には埋められないなにかがあって、それは永遠のようにすら思えた。貴方は決して認めることはな
海より深く、星明かりさえ届かないとこまで深く沈めたら、どうかどうか沈めてくれよ私のこともあなたのことも誰も彼も忘れてしまうくらいにさあ! 私があなたを嫌いだと言った日、「奇遇だ」とあなたは言って、それがとても嬉しかった。 「そうか、わたしもおまえが大っ嫌いだから、おあいこだな!」 吐き捨てるように私はそう言って、土砂降りの雨に濡れたアスファルトの黒さに目を奪われた。どこにも行けないままどこかへ行けるってわかる? どこまで逃げればいいかな。誰が追ってくるかな。なあ、追いか
カーテンを開け放つと快晴だった。ベランダに出ると誰かが育てた鉢植えが華やいでいて、昨日まで蕾であった桜の木に小さな薄紅色の花が咲いていた。まだ冷たい春の風に吹かれ、はらひらと散っていった一葉たち。その向こう側で春を告げるひばりの声を聴いたときから予感していたんだ。私はもうここから出て、誰かに出会わなければならない。 そうして玄関を出ると、ピンクのスーツに身を包んだ男が立っていた。手にはチューリップの花束を抱えていて、あまりに胡散臭いその姿に一瞬だれだかわからなくなったし、
拝啓。わたしたちはみな、氷でできたスプーンですくったアイスクリームのようなものだと思います。私たちはすぐに溶けてしまうのです。わたしたちの住むこの世界は氷でできている。わたしたちはみんな、氷でできたお城に住んでいる。 わたしたちがいるところは北極でも南極でもない。赤道直下の日本です。太陽が昇ると暑くなるのは、空気中の水分が熱せられているからでしょう? だったらその水蒸気を集めて冷やせばいい。あなたはお元気ですか、わたしたちの北海道はいま、毎日連日日夜最高気温を新たに更新し
鉄屑の海だけが何処までも流れ果てる砂の荒野のすみで、太陽が西から東へ沈むのを眺めながら、西暦から消えた週末を過ごしていた。私が搭乗するただ一隻の船だけが、ここに残されているが、他にはなにもない。仲間の船団は勇敢な突撃を強行した結果、この砂の海に散り果てて、いまでは鉄の藻屑となって、この地球と同化しているのだった。彼らは時の粒子になったのだ。 なぜ私たちだけが生き延びているのか、ぼんやりと靄の晴れない頭で想いを巡らせながら、今日もサボテンを狩り獲って話しかける。サボテンには
風を浴びようと思って、少女は丘へつづく石段をのぼった。春の風はあたたかく雲の間をおよいで、隣町の空のむこうから、今日も知らない物語を届けてくれる。 この星屑の丘には風の宅急便に乗って、毎日すてきな贈り物が流れてくるのだ。少女は、それを受け取るのがなによりの楽しみだった。 ほかの誰でもない、誰かからの贈り物。きょうの風はなにを運んでくるのだろう。 ふわりふわりと流れてきた色とりどりの風船は、いつも少女の頭のうえで、泡のようにぴちんと弾け、プレゼントを届けてくれるのだけれ
しろい波がわたしの足元をすくっていく。海の向こうから流されてきたさまざまなものは、この浜辺に長らくひとりきりの、わたしの退屈を埋める泡になってくれる。 それはだれかが捨てた缶だったり、解消されてしまった婚約指輪だったり、ひとの眼には視えないくらげの赤ちゃんだったり、魚の死骸だったり……いや。 魚は、よくみると、まだ口をぱくぱくさせていた。生きているのだ、この電子の海の墓場のなかで。 わたしがぐっと念じれば、このなにもない小島にだって、いくらでも草を生やすことができ