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いま思うと彼は写真をこじらせていた。まだ見ぬ景色を撮るんだ、などと言って、暇さえあれば町中のどこでもシャッターを切るような人間だった。ごみ捨て場がラベンダー畑にでも見えているらしかった。彼が突然立ち止まるものだから、街ゆく人たちが奇異な目で見てくるので、連れ立って歩く時は恥ずかしい思いをしたものだ。 私はいつも彼の画角にうっかり入ってしまわないように、一緒にいる時はひたすら彼の背後を取ることを意識して歩いた。殺すほど憎くもない男の暗殺者になった気分を味合わされたのは、後に
雲の流れへ身をあずけることなく風はやんでいる。空気は冬らしく凜と冷え、空が凍ったようにすべてが凪いでいる。海を照らす太陽のひかりがやけに澄んで見える。海沿いの街道を背に佇む彼女の立ち姿を際立たせるみたいに、その輪郭線がかがやいて見えた。ひとつの冬が終わりそうで終わらない朝のなかで、風晴先輩だけが夏を軽やかに羽織って、誰にも押し寄せないひとりぼっちの波を眺めている。 今日の夕飯がすき焼きなことをいったん忘れて、かごの中に野菜や肉を押しこんである錆びかけた自転車を道ばたにとめ
宅配業者から「お届け物です」と言われて受け取ったダンボール箱は思ったより小さかった。中に試供品の仲間が入っているとは、あの配達員の男性も思わなかったのだろう。 「はじめまして。私はあなたの仲間です」 そこに入っていたのは男か女かよくわからない、すくなくとも人間のかたちをしてはいる、見た感じ二十歳前後の若者だった。 「仲間、あげます」という怪しいハガキを受け取って、SNSで話のネタにでもなればと思い無料お試しサービスに応募してみたものの、まさか人間っぽいものが送られて
結露した窓硝子にいつまでも寄りかかっていて寒くはないのだろうか。ご飯ぐらい椅子にすわって食べなよ、私が何度言っても彼はまるで聞く耳をもたず、眼鏡の奥にみえる切れ長の瞳を手許の電子書籍端末に落としつづけている。本を読む趣味がない私には、なにかめずらしい虫でも探しているみたいに見えた。 「そんなに下を向いてばかりいるといつか目玉が落っこちるよ」 「そうかもしれないな。君がそう言うなら」 いったい私をなんだと思っているのだろう。仕方がないので、鍋の中でまだぐつぐつと煮えてい
どの道終点がないとわかっている迷路なら標識をみて立ち止まらなくてもよい。壁が綿菓子のような雲でできているなら、分解された雲を引きずりながら突き抜けていってもよい。 青空の道はいくら迷っても終わりが見えない、すれ違う迷子たちと挨拶をかわすだけの場所。 地上からみた空はあんなに自由に見えたのに、いざ来てみると何もない。ただ青いだけだ。点在する展望台からみえる地上の景色だけがきれいだ、望遠鏡にうつらない範囲はきっと今日も燃えているのだろうと頭のどこかでわかっていながら、わたし
船に乗るということは、つまり漂流するということだから、それは百歩譲って仕方がないことだ。ただでさえ憂鬱なのに、この船の航海士ときたら、まるで他人の気持ちなどに思いを巡らせたことがないような真っ青な顔をしていて、わたしはあの亡霊めいた男のつめたいまなざしが目に入ると、朝晩生きた心地がしないのだった。 ああ、あの男は嫌いだ。ああ厭だ厭だ。 水平線から知らぬ顔の朝日がやってくる。もうすぐ朝食の時間が来てしまう。いまさら胃にも残らない呪詛を吐いたってなにもかも手遅れ。わたしたち
「大丈夫」って君は言うけど、何が? 僕からしたら大体なにもかも同じ。だから今、君に言うべき言葉を頭の中で考えている。 心は裏腹でも身体は動くし、今日も夜が来る。大丈夫だよ、僕は君がしきりに繰り返すその言葉を、信じることができない。本当はどうでもいいから、いつもそんなことしか言えないんだろう。 誰も彼も気持ち悪いから、いいかげん傷つけてやりたかった。君のことなんか嫌いだと、はっきり突きつけてやるつもりだったんだ。けれど口から飛び出したのはまったく違う言葉だったから、僕が一
積み木をしようか、ちいちゃん。 はい、これが積み木。君とぼくだけの、なんだって作れるすばらしい魔法の煉瓦だよ。君とぼくの積み木はチーズみたいな、ちいちゃんの好きなやさしい黄色をしているね。おいしそうだね、けれど食べられない。舐めるとバターの味がするけど、けしておいしいからと言って食べてはいけない。ぜんぶ食べちゃったら、さすがになにも作れなくなってしまうから。 さあなにか作ろう。なにがいいかな。ちいちゃんの好きなお城がいいね、お城にしよう。柱をたてて、屋根をつけて、バルコ
昔々あるところに、偉大な王様がおりました。その国はとても豊かで、たくさんの人々が幸せに暮らしていました。王様のお妃様はたいそう美しく、お子様達も可愛らしいと評判でした。ある日、王妃様が身ごもりました。生まれた子供はそれはもう、たいそう可愛い女の子です。 そして――王様は、生まれた姫を「んぎょうひめ」と名づけました。 ある日、年頃になったんぎょうひめは、大変なことに気がついてしまいました。 「姫様、お茶でございます!」 「姫様、ピアノのお稽古の時間ですわよ」 「姫様、お
彼女はひどく冷たい眼をしていた。曇り硝子のような、無機質で、無感情なまなざしだ。それがどうにも不気味だったらしく、僕は曖昧な笑みで返すしかなかった。 僕にとって彼女というものは、とても大切な存在だったはずだ。少なくとも、僕がこうして部屋に帰ってきている以上、ほんの数時間前まではそうだったに違いない。それなのに、彼女に対して今どのような感情を抱けばいいのかが、まるでわからずに混乱していた。 「だれ?」 彼女の唇が動くのをみて、ああ、やっぱりこの子はぼくの知るあの子なのだと
透明な傘の下で雨に濡れることを忘れていた。私は何も知らなくていいと、あなたが口を噤んで微笑む。砂は落ちてゆく。あなたは言う、もうすぐ夜が来るよと。夜はあなたに似合う言葉ではないから、あなたにこそ似合わない言葉を私は探し続けていた。あなたは静かに目を伏せて、私は雨音が響く中、そっと耳を塞ぐ。砂時計は緩慢に音もなく降り積もってゆく。 世界が息絶えて眠りはじめるまで、あなたの目蓋に、頬に、睫毛に触れて居たくて手を伸ばせば、魚のようにするりと消えてしまうのだろう。透明で硬質なこの
きみがぼくの指先にふれて、「すき」と書いたその日を誰かが境界線にして、世界が変わったのだと思う。それはぼくたちの産声であると同時に、世界が根絶されだしたことも示していた。ぼくらの眼にはふたつの色が映る。世界を彩る鮮やかな赤と、世界を塗りつぶすような真っ黒な青だ。 空に眼を凝らす。青のなかには光る点がいくつか見えるのだけど、どれもぼやけてしまってよく見えない。赤い瞳は青く濁ることもない。だから、空に散らばる点のなかで、きみを見つけた。きみは泣かない子どもではなかったのだと、
わたしは貴方のものになりたかったのだけど、結局最後までなれないままだった。あの日貴方を刺したのは、わたしではなく、貴方の影法師、貴方のまぼろしだと思っていたかった。 今更になって、やっとわかった。貴方にわたしを救うことなんて無理だった。 わたしの影を踏み躙りながらでないと、貴方はまともに歩くことすら出来ない。貴方の影にしかなれないわたしには、責めることすら許されない。貴方とわたしの間には埋められないなにかがあって、それは永遠のようにすら思えた。貴方は決して認めることはな
海より深く、星明かりさえ届かないとこまで深く沈めたら、どうかどうか沈めてくれよ私のこともあなたのことも誰も彼も忘れてしまうくらいにさあ! 私があなたを嫌いだと言った日、「奇遇だ」とあなたは言って、それがとても嬉しかった。 「そうか、わたしもおまえが大っ嫌いだから、おあいこだな!」 吐き捨てるように私はそう言って、土砂降りの雨に濡れたアスファルトの黒さに目を奪われた。どこにも行けないままどこかへ行けるってわかる? どこまで逃げればいいかな。誰が追ってくるかな。なあ、追いか