華やかくそやろう
カーテンを開け放つと快晴だった。ベランダに出ると誰かが育てた鉢植えが華やいでいて、昨日まで蕾であった桜の木に小さな薄紅色の花が咲いていた。まだ冷たい春の風に吹かれ、はらひらと散っていった一葉たち。その向こう側で春を告げるひばりの声を聴いたときから予感していたんだ。私はもうここから出て、誰かに出会わなければならない。
そうして玄関を出ると、ピンクのスーツに身を包んだ男が立っていた。手にはチューリップの花束を抱えていて、あまりに胡散臭いその姿に一瞬だれだかわからなくなったし、もう一度冷静に見直しても……やっぱり誰だかわからなかった。おい、貴様誰だ。
「すみませんが春の押し売りは間に合っていますので」
こんな不審者に出会いたいと思って一歩踏み出した訳ではない。出会いの予感の首を早々に切る事にして、扉を閉めようとすると、ピンク男は気取った笑みを浮かべながら、俺を覚えていますかと言った。残念なことに見覚えはまったくなかったが、万が一にも知り合いである可能性はなくはないかもしれないので、一応名前を聞いた。すると男は桜色の目を嬉しそうに細めて言った。
「あなたの運命です」
なるほどこれが噂の宗教勧誘、にしてもどういう宗教だと思った。チューリップの花に教義的な意味をもたせている新興宗教がきっとどこかにあるのだなと、適当に考えておいた。とにかくこいつを追いかえさなければという気持ちが、にょきにょきと生えてきて仕方がなかったので、私は大声で叫んだ。
「大家さん、不審者です! 不審者がいます!」
けれども誰も来てくれなかった。電線の上にとまっている鴉だけが、私を小馬鹿にしたようにカアと鳴いた。余計なことを怒鳴ってしまったあと、男が、俺たちにとってみればあなたたちのほうが奇異なんだけれどねと笑った。人間が人間を信じなくなるなんて悲しい時代になったものですね、そう言いながら部屋に上がり込んでくる。
「だから俺は春を売ることにしたんですよ。どうですか、買いませんか」
頭も花盛りとしか思えない言葉を真顔で吐き続ける男を見て、いよいよ腹立たしさが頂点に達した。そして私の心は静かに決意したのだ、絶対にこいつを殴り飛ばそうと。
「あの、春を売るってどういう意味かわかって人んちに上がり込んでます?」
それを聞いて、ピンク色の男はまた笑う。満開に咲き誇る図々しさはいっそ狂気じみてすらいるけれど、もしかしたらこいつ的にはまともな反応なのではないかと思い直した。なんせこちらだけ真剣なのだ。真面目を通り越してむしろ今、怖いくらいに怒っている。
ふと足元を見ると、床のフローリングが桜の絨毯に変わっていた。驚いて、窓から身を乗り出して外を見ると、あたり一面花で覆われていた。これはいったいぜんたいどんな嫌がらせなのかと考えていたら、男の手が肩に触れて、世界がぐるんとひっくり返った。視界の端でひらついたあの苛つくピンク色、モンタージュ、フラッシュバック、ああそうだ、デジャヴ。この部屋は夢の中では私のアパートなんかじゃなくて、あの大きな屋敷の中の廊下だったっけ。
天井を見上げているのか地面に伏せているのかもわからなくなり、ただ私はこんな所で、こんな原因で、わけもわからず桜の下に埋められるのかと思ったところで、脳みそピンクの梅酢漬け野郎は私のすぐ近くに姿を現した。男は私を見下ろしていた。今度は顔をあげることができたから、その顔が笑っているのを見た。そして確かにこう言ったのを、聞いた。
「お嬢様、この世は結局喜劇なんですから」
あれ、私はお嬢様だったっけ?
上を見あげると、そこはやっぱり古ぼけたアパートの天井で、私は染みを数えながら、桜の下の墓穴から這い出ることができたのを知る。そして容赦なく110番を押した。事件でもあり、事故でもあった。
どうやら男は本気で不法侵入を試みたらしいということを聞かされても、もう真面目に怒りをぶつける気には到底なれなかったし、「君には絶対幸せになってほしいだけなのに」と泣き喚いているピンク野郎が、実はアパートの庭を花だらけにしていた犯人であった事実にも、まともに怒ることができない。頭の中には疑問符しか残っていなかった。意味不明な供述を繰り返しているというのは、たぶんこういう状態を言うのだろうなとだけ、ただうっすら考えていた。
私の脳内では桜色の舞踏会が繰り広げられている。大きなお屋敷の中で、大勢の大人を相手に優雅に立ち回る私、そんな夢を見ていた。だけど、現実の私は一人だ。いきなりピンクの変質者がアパートに押し入ってきた、気の毒な独居成人女性だ。
警察から連絡を受けた大家さんは大急ぎで帰ってきた。彼女は私の無事を確認すると、困ったみたいに笑って「なにか美味しいものでも食べに行きましょうか」と言ってくれた。あの男の桜色の目に映ったものが、供述調書の中でどう処理されるかなんか知りたくなかったから、私もそれに同意した。
「春色のスーツがよかったのですがね。あなたには青が似合うでしょう」
あの男の声が聞こえた気がして、私は庭にある桜の樹のほうをばっと振り返った。
誰もいなかった。そしてそのまま、二度と見ることはなかった。
あれきり部屋のカーテンは閉め切っている。あの思い出したくもない春の日と同じ、薄紅色の花は今年もまた咲いているのだろうか。
この部屋に引っ越してから二つ目の春が無事に来たのだと思い、うつろう空の色を見つめているところだけれど、いまだに心が落ち着かない。誰かが扉を叩く音が聞こえる気がして、それは聞き間違いではないかもしれなくて、でもそれはたぶん気のせいで、それでもずっと誰かが訪れるのを待っている。できれば今度は、ピンクのスーツを着た変質者以外でお願いしたい。
いつか私の中の唾棄すべき春がすべて消えてしまったとき、もういちどあの桜が見たくなるかもしれない。あの大きな桜が見える窓辺で、私はきっと待っていたはずなのだ。私の春になる人を。そうでなければ、この意味不明な寂しさは説明がつかないのだ。
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