船と寄生虫
船に乗るということは、つまり漂流するということだから、それは百歩譲って仕方がないことだ。ただでさえ憂鬱なのに、この船の航海士ときたら、まるで他人の気持ちなどに思いを巡らせたことがないような真っ青な顔をしていて、わたしはあの亡霊めいた男のつめたいまなざしが目に入ると、朝晩生きた心地がしないのだった。
ああ、あの男は嫌いだ。ああ厭だ厭だ。
水平線から知らぬ顔の朝日がやってくる。もうすぐ朝食の時間が来てしまう。いまさら胃にも残らない呪詛を吐いたってなにもかも手遅れ。わたしたちはすでに海の真ん中に居て、この船は、これから沈むとわかっている沈没船を漕ぐように、絶望に濡れながら何処か遠い国を目指しているらしい。
この船に乗ってから四度目の食事になる。朝食のメニューは魚らしかった。けれどこの魚はさっきまで生きていたのか、はたまたとっくの昔に事切れていて、その死骸が食卓へ上がっただけなのか、もはや疑いようがないほどに腐敗が進行しているのだった。
食堂に沈黙が満ちる。鼻をつく腐臭に耐えきれず、誰かが手洗いへ駆け込んでいくのが見えた。気休めでもいい。わたしはたちの悪い幻覚を視ているのだと、誰か言ってほしかった。手の甲をフォークで突き刺しても、皿の上から漂うにおいは、丁寧に調理された悪夢をより深刻なかたちで提供するだけだ。何かのマリネに血のソースがまぶされて、より完成形へと近づいただけだ。
あの男が見ている。厨房からじっと、冷徹に。虫の死骸を観察する子供のような顔をして、わたしをみている。まるで、そのテーブルに並んだ食べ物たちが、かつておまえと同じ生き物であったとでも言いたいかのように、死んだ魚も跳ね起きる憐れみ深さでこちらを射抜いている。そんな筈はないとわたしは首を振る。手も足もあるじゃないかと、必死で証明してみせる。
男は無言のままだ。今度は声を失った音楽家のように無口に佇んでいて、けれどわたしは、その眼に何も映されたくないと思うのだった。彼の目にうつるとすべてが終わりそうな気がしていた。その正しさを証明するかのように、彼は、ただそこに立っていただけで、何か直接的な害を為したわけではないのだけれど。
ただひたすら耐え忍ぶ、或いは逃げることに意味があったのだ。だからわたしは、あの男に見られているという事実を、必死で意識の外に追いやった。追い払ったところできっと無駄なのだろうとわかっていた。出された魚をナイフで捌くと、脳のはしっこが焼けるように熱くなって、視界が真っ暗になった。なつかしくも哀しい遠いさざなみ。深い、暗い、夜の海に沈んでしまったのだった。
わたしはこのまま二度と浮上することなく、どこの国にも辿り着けず、溶けるように消え去ってしまうのだと理解したときには、もう世界には音も厭なにおいもなくて、身体から意識が乖離するその瞬間だけが、ただおそろしく静かで尊いものだということを理解した。やはり、わたしは汚いから、せめてこの世で一番綺麗な死に方を選ぶことにする。
そうしてわたしの真相は目を覚ます。目の前には、常と変わらない表情のあの男が佇んでいるだけだった。ただ、身体がひどく大きく感じられた。ほんとうの彼は航海士でも音楽家でもなく、料理人だったのだと気づいた。
そうか、あなたにだけは、わたしが見えていたのだったか。ならばもっと上手くやってほしかったものだと悪態をついてから、あなたをひどく疎んできたことを後悔する。
ああ、これでは、本当に、謝罪する口もないというもの。人間の皆様、いままで生きていてごめんなさいね。