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んぎょうひめ

 昔々あるところに、偉大な王様がおりました。その国はとても豊かで、たくさんの人々が幸せに暮らしていました。王様のお妃様はたいそう美しく、お子様達も可愛らしいと評判でした。ある日、王妃様が身ごもりました。生まれた子供はそれはもう、たいそう可愛い女の子です。
 そして――王様は、生まれた姫を「んぎょうひめ」と名づけました。

 ある日、年頃になったんぎょうひめは、大変なことに気がついてしまいました。
「姫様、お茶でございます!」
「姫様、ピアノのお稽古の時間ですわよ」
「姫様、お庭の散歩に行きましょうか?」
「姫様、おやつの時間ですよ〜」
「姫様、お昼寝ですか? では、添い寝をして差し上げましょう」
 姫様、姫様、姫様……そう、誰もんぎょうひめの名前を呼んでくれないのです。んぎょうひめの血を分けたきょうだいである、弟王子のランスや、妹王女のシェリルですら、んぎょうひめを遠回しに「お姉様」と呼んでくれます。
「……どうして!?」
 んぎょうひめは驚きました。そういえば父王はもちろんのこと、母王妃でさえ、娘の名前を呼ぶことがありません。まるで、彼女の名前が何か、とても特別なものであるかのようにです。
 そりゃそうです。んぎょうひめはティアラを地面に叩きつけ、お城中に響くような大声で叫びました。
「私の名前、『ん』から始まっているじゃない!!」
 なんということでしょう。国中の誰も、んぎょうひめの名前を正しく発音することができないのでした。だから「姫様」「お姉様」「親愛なる我が娘よ」などと言って、この歳までなんとかごまかしてきたのです。このままではいけません。どうにかして、みんなに名前を呼んでもらえるようにしなければ。そう思ったんぎょうひめは、さっそく行動を起こします。

「お父様! どうして私の名前は……(発音できない)……なのですか!?」
 王様は困りました。娘がついに自分の名前の秘密に気づいてしまったのです。というか、気づくの遅すぎじゃないかともちょっと思いました。しかし王様として、国の主として、ここは毅然とした態度で真実を伝えなければなりません。
「……うむ、実はだな、お前は…………ぬぅ、それは、その……」
 王様は何も言えなくなってしまいました。まさか酔ったまま名前をつけたので、うっかり発音できない名前になってしまったなどと、愛する娘へ正直に言えるはずがありません。
「よく考えてみたらおかしいわ! どうして弟や妹の名前がランスやシェリルなのに、私は(発音できない)なの!?」
「お、お前は……親愛なる我が娘よ、お前は…………」
 王様は悩みました。
 悩んで、悩んで、悩み抜いて……残酷な真実よりも、優しい嘘を告げることを選んだのです。
「仕方がなかったのだ。お前の名前を……(発音できない)……にしなければ、国中の人々があ行でしか会話できなくなる呪いをかけると魔女に脅されたのだ、すまなかった、親愛なる我が娘よ……」
「え!? あ、あうぅ……!」
 ショックのあまり、んぎょうひめはよろめきます。するとそこに、彼女に仕える老いた執事がやってきました。
「お嬢様、大丈夫ですか……?」
「じい……私は一体どうしたらいいの!? 私、このまま誰にも名前を呼ばれないまま、一生を終えなければならないのかしら?」
「お嬢様……わたくしめもお嬢様のことをずっと呼んでさしあげたかったのですが、どうしても……うう、どうしても言えないのでございます、申し訳ございません!」
「そんな……泣かないでじい、いいのよ、いいの……」
 老執事の涙を見て、んぎょうひめもまた泣きたくなりました。しかしその時、んぎょうひめは突然ひらめいたのです。
 そういえば、私もこの老執事の名前を知らないのではないか?
 そうだ、自分も名もなき彼の名前を呼べば良いのだと。そうすればきっと、みんなも私の名前を呼んでくれるに違いないと。
「ねえじい、私もあなたの名前をちゃんと呼べるようになりたいわ。あなたの名前を教えてちょうだい!」
「お嬢様……わたくしはそのようなつもりで言ったわけでは……」
「お願い、教えてちょうだい! 私にあなたを呼ばせてちょうだい!」
「……かしこまりました、では僭越ながら……わたくしめの名前は『カルジタ』でございます」
「カルジタ! あなた、カルジタというのね! カルジタ! カルジタ!」
「お嬢様……」
 老執事、いえカルジタは、喜ぶんぎょうひめの姿を見て涙が止まらなくなりました。王でも王子でも姫でも魔法使いでもない、脇役の自分が、お姫様に名前を呼んでもらえることなんて一生ないと思っていたからです。
 それからんぎょうひめは、国中のひとびとに名前を尋ねてまわりました。
 路地裏の小さなパン屋でパンを売っていた娘の名が『マーサ』だったり、町の外れの森に住んでいる物知りなおじいさんの名が『ハンス』だったり、近所の子供達を集めて歌っていた旅芸人の女性の名が『エミリア』だったりと、みんなそれぞれ素敵な名前を持っていることを知りました。
 んぎょうひめに名前を聞かれた国のひとびとは、みな涙を流しました。
 んぎょうひめは、嬉しそうにみんなの名前を呼んでくれます。けれど、誰一人として、んぎょうひめの名前を呼んであげることはできないのです。それでも、みんなが心のなかで思っていました。
 姫様、あなたはとても美しいかたです。国じゅうの誰もがあなたにひれ伏すでしょう。
 あなたが私たちの名を呼ぶたびに、私たちの心は喜びにふるえます。
 あなたの笑顔を見るだけで、私たちは幸せになれるのです。

 やがて王様も歳をとり、んぎょうひめは国民の熱烈な支持を受けて、この国を治めることになりました。
 国民達はとても喜びましたが、誰もんぎょうひめの名前を呼ぶことはできませんでした。
 それでもいいのです。んぎょうひめは自分の名前を呼べない代わりに、自分以外の誰もの名前を知っていました。
 あの頃の王様ほどの歳になったんぎょうひめは今、そのことをとても誇りに思っています。
 時は流れ、彼女も亡くなり、その日は国じゅうのひとびとが彼女のために泣きました。
 それから何百年もの時が流れ、この国の人々は、今も彼女が愛し、守ってきた城を囲んで、豊かに暮らしているのです。
 彼女の墓前にはこう書かれています。

 ――私たちの偉大なるんぎょうひめ、ここに眠る。

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