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不等号に埋没

 わたしは貴方のものになりたかったのだけど、結局最後までなれないままだった。あの日貴方を刺したのは、わたしではなく、貴方の影法師、貴方のまぼろしだと思っていたかった。
 今更になって、やっとわかった。貴方にわたしを救うことなんて無理だった。
 わたしの影を踏み躙りながらでないと、貴方はまともに歩くことすら出来ない。貴方の影にしかなれないわたしには、責めることすら許されない。貴方とわたしの間には埋められないなにかがあって、それは永遠のようにすら思えた。貴方は決して認めることはないと思うけれど、多分きっと、貴方はひとりではないのだろう。
 あの子は失敗した。だって知らなかったから。死体を埋めるのに必要なものなら、もう掘り当ててしまった。土に汚れた子供、転がり落ちた瞬間、見てしまったその穴を、わたしの穴だと云ったなら、これは誰かの慰みくらいにはなるかもしれない。
 わたしのためにはならない、それでも構わない。
 あの子が望んだように、ただ貴方を埋めてあげるだけ。
 穴を掘る。突き落とす。土をかける。埋める。貴方の臭いがしないように封をする。そうしてちゃんと、生き物の名前がつかないところまで分解されればいい。わたしの影を踏んでいないとき少しだけまともになれる、貴方はそういうひとだったから。
 腐蝕衝動が進行して、わたしの影を踏んでいるときの貴方の目はとても綺麗だったから、もう瞼の裏側だけ見ていればいい。わたしはわたしの名前を土の中に置いていくけれど、別に悲しくはない。それだけじゃだめなんだと泣いていたあの子のことを、最後まで理解は出来なかったけれど、解釈はした。だから、もう行かないといけないことも知っている。
 ひとつだけ心配があるとしたら、埋まらない空洞についてだけど、そこは貴方の名前を貰うことにした。深い森の底から見上げる星の輝きや、川面に揺れる蛍火や、遠い春に咲いていた花の名や、うつくしいものなら沢山あったのに、それでもやっぱり貴方の名前だけは、世界で一番綺麗だと思っていたよ。

 穴を掘る。突き落とす。土をかける。埋める。
 貴方が二度と目を覚まさないようにと願ったあと、少しだけ夜の森を歩いてみたけれど、疲れてしまっただけだった。帰り道もわからないまま、朝焼けの中、わたしはもはや行くあてもなくただ途方に暮れている。
 名前をあげる筈だったあの子の姿が見えない。どこかで野垂れ死んでいなければいいけれど、この森には犬がいるから、見つかってしまうかもしれない。わたしにはあの子が逃げ切れることを祈るしかできない。
 水のにおいがしていた。貴方はきっと、水の中で必死に息をしていたのだと思う。穴はもうとっくに塞いでしまったから、ごめんなさいと虚しい文字列だけを頭に浮かべ、省みたふりをする。
 もうすぐ雨が降る。あの子はうまく撒けただろうか。穴があった所の上にしゃがみこんで、星を見上げた。わたしの影を踏んだとき、貴方はすこしだけ申し訳なさそうな顔をしていたけれど、そこが一番醜いと思っていた。
 わたしは名前が欲しかっただけ。貴方と同じものが良かっただけ。視界には無数の糸が絡みつき、それはだんだんと、貴方の形を成していく。ああやっとこれでわたしも貴方になると思った時だ、急に強い力で手を引かれたのだ、そこにはもう穴なんてなかったのに。

 貴方の胸の裡には真っ暗な影ばかりが広がっている。
 初めてわかった、わたしたちは、ここでずっと泳いでいた。なにかで満たすには、この空洞はあまりに広すぎた。
 そうしてわたしも穴になった。わたしの穴に落ちてくるものはなんでも好きだ。
 ただあなたの腕のなかだけがひどく寒い、わたしの影を踏み躙らないと歩けもしないひとの中で、わたしはいまやっと、正しく呼吸をしているような気がした。

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蜩ひかり
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