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人魚姫は電子のナイフで誰を刺すか

 しろい波がわたしの足元をすくっていく。海の向こうから流されてきたさまざまなものは、この浜辺に長らくひとりきりの、わたしの退屈を埋める泡になってくれる。

 それはだれかが捨てた缶だったり、解消されてしまった婚約指輪だったり、ひとの眼には視えないくらげの赤ちゃんだったり、魚の死骸だったり……いや。
 魚は、よくみると、まだ口をぱくぱくさせていた。生きているのだ、この電子の海の墓場のなかで。

 わたしがぐっと念じれば、このなにもない小島にだって、いくらでも草を生やすことができる。翠色にかがやく草を生やせば、咲いた花から滴る蜜が、あらゆる病を癒してくれた。モザイクに侵食されて、いまにも弾けてしまいそうな魚の口へ、かがやく雫をたった一滴たらしてやるだけ。

 そうすると、苦しそうにしていた魚は息を吹き返して、とおい空のうえへと泳いでいった。

 カラフルな風船が、魚と一緒に空を泳いでいる。わたしの楽園は今日もなんて平和なのだろう。


 人魚姫の迎える最期には死の一文字しかないだなんて、そんな聞き飽きたファンタジーは、すこしキーボードを叩くだけで書き換えられるのだ。泡になった人魚姫はキーボードを拾った、結構なこと。尻尾が魚だって、声が出せなくたって、キーボードを叩くぐらいは悲劇のお姫様にも許される。

 わたしは王子様をいなかったことにした。魔女も、お姉様も、みんないなかったことにして、すべてをデリートして、かわりに島をたったひとつだけ作った。遠くのだれかがごみ箱に捨ててしまったものが、この浜辺に流れ着いて、わたしが失った半身を埋めてくれる。どうしたって声だけは出なかったけれど、誰もいないのだから、困りはしなかった。

 空にうかぶ風船が歌をうたっている。きっと、水を離れて飛び立った魚を歓迎しているのだろう。魚は泳ぐものだなんて決めなくたって、わたしの海では自由に歩いていい。でも、足が生えたらちょっとかわいくないなあと思うから、生やすなら羽根がいい。トビウオなんて中途半端だから、立派な猛禽類の羽根をあたえてあげよう。

 誰かに捨てられてしまった魚は、わたしというプログラマーに書き換えられて、おおきな鳥になる。ワシウオとでも名付けようか。ワシウオはがっしりした翼で力強く羽ばたいて、この島の上空をぐるりと回っている。

 さあ、次はあの子にどんなかっこいい鳴き声をつけてあげようか。

 声を失ったわたしは、電子音声のライブラリにアクセスすることしかできないのだけど、デジタルな効果音を組み合わせれば、龍のなく声が作れるにちがいない。魚が吠えたって別にいいと思う、人魚姫だって、ほとんど魚じゃないんだから。


 王子様を刺せなかった人魚姫は、気づいてしまったんだ。

 なんだ、死にかけるって、意外と悪くないなって。これはキーボードで書き換えたことばじゃなかった。私の心臓のなかからあふれ出してきた、きらきらした言葉の泡だった。

 私の胸からとびたったシャボン玉は空へ舞い上がって、ワシウオと風船といっしょになって、自由にダンスを踊る。飛ばなくたって、泳がなくたって、浮かなくたって、なんだっていい。生きているわたしたちは、死にかけの魚になることをやめたのだから。

 喉の奥から、ずっと忘れていた歌がこみあげかけた気がしたけれど、わたしは歌うのもやめた。そんなものよりもかっこいいワシウオの声が、天高くひびいている、この島が好きだ。

 ここがわたしのうまれた島。
 わたしがいきていく、島。


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