世界が不確かで覆われたとき不安や孤独に襲われたとしても、我々は言語不信に陥って誰か「メディアや権力者」の言葉に依存してはならない 言語の可能性こそ信頼し、言語の豊饒さによって触発される「迷い」を贈り物として祝福するべきではないか? 迷いが破滅に突き進む未来を変えるきっかけかも
自然言語は各々の国の文化を代表する行ける遺産としての側面を持っている 母国の慣れ親しんだ言葉から、多様な連想を次々と呼び起こすことができる 効率を優先した人工言語ではこのような連想も厚みも持ち合わせることできない 薄ぺらな言葉は意味が壊れやすく、伸びしろがないのである
迷いというのは必ずしも断つべきことなのか?ないほうがいいのか? 迷いの感覚は道徳的な贈り物であるという意見がある 迷いは足を引っ張るとか目を曇らすとか否定的なとらえ方が多いと思うが 迷いとは現状に違和感や疑念を持つから生まれるもの。蓋をしてしまうのは自らを否定することでもある
言葉に魂が宿る。ほかの言葉には置き換えられない固有性を持つものとして立ち現れる。というのは特定の文脈の中の話だということである。どの文脈も横断して、実態としての魂が超然と存在するわけではない。 文脈の背景・タイミング・トーンの言葉が表情や響きをもって人間の前に立ち現れることだ
言葉の魂の哲学を読んでいる アスペクト盲というものをウィトゲンシュタインというものが述べていた アスペクトとは日本語では相貌とか表情と訳するのが適当と思われるらしい 言葉に込めていた意味や形が壊れただの音響に聞こえてしまうものをアスペクト盲というらしい
ナチス:出来事の印象を操作し洗脳
韻に必然性を見る
文法的には誤っても、創造性があったりするのはある気がするなと。行間のものが省かれたり、そのニュアンスにはそうしかないとか