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松浦寿輝「遊歩遊心 連載62回「中島、カフカ、芥川」(文學界)/『中島敦』(「文字媧」「悟浄出世」)/古田徹也『言葉の魂の哲学』/古田徹也『言葉の魂の哲学』

☆mediopos3618(2024.10.15.)

松浦寿輝の『文学界』での連載「遊歩遊心」で
「中島、カフカ、芥川」について書かれている

中島敦はカフカを訳しその影響を受けているが
芥川龍之介にカフカの「痕跡」はない

それは芥川龍之介が「一九世紀のパラダイムの内部で
動いている文学でしかない」のに対して
中島敦は「二〇世紀文学である」ということでもある

二〇世紀文学は
「世界の輪郭や秩序が自明のものではなくなり、
人間の生が何によっても根拠づけられなくなった
————そんな認識とともに始動」する

中島敦の「二〇世紀的感性」を典型的に表しているのは
「文字媧」や「悟浄出世」である
その感性はホフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」や
ボルヘスの短篇群と共鳴しあうものだ
ここではふれられていないが
哲学でいえばサルトルの『嘔吐』などもそれにあたるだろう

文学的表現についてではないが
このテーマの哲学的視点については
古田徹也『言葉の魂の哲学』が
比較的わかりやすく論じているので
それをガイドに中島の「文字媧」「悟浄出世」における
「ゲシュタルト崩壊」について簡単に見ておくことにしたい

「ゲシュタルト崩壊」とは
これはおそらくだれでも体験していることだと思われるが
たとえば「ひとつの文字をずっと見つめていると、
それまで一定の意味と音をもっていたはずなのに、
突然、いわばかたちをなくし、
単なる無意味な線の集まりにしか見えなくなる」
といった現象である

「文字のゲシュタルト崩壊を体験するとき、
人は、意味が引き剥がされた単なる線の集合、
生命のない無機質な存在ともいうべきものを垣間見る。
意味なく、何の必然性もなく、
ただそれがそこにあるという感覚に襲われる。」

「しかし、幸い、通常はこの種の感覚はすぐに消え」
文字はすぐに再び生命を得て、その文字固有の意味を取り戻す。」

中島敦は「ゲシュタルト崩壊」から回復できず
「言葉が死物と化す悪夢を描」き(「文字媧」)
観世音菩薩の導きでそこからの救済を得る話を語る(「悟浄出世」)

とはいえ「当たり前と思っていたものが
異質なものに感じられる感覚に襲われ、
当然視していた日常の世界が崩壊する事態に直面」した
「悟浄出世」の主人公である沙悟浄は
その後も「どうも、うまく納得が行かぬ」というように
「意味への問いを完全に忘れられたわけではない」

中島敦は三十三歳で亡くなっているので
その後に書かれたかもしれない物語を
読むことはできないのだが
そこでは「無意味性」に満ちた禅の言語が
テーマとなっていたかもしれない

「ゲシュタルト崩壊」は
それまで意味を作り出していた分節が
その自明性を失った状態だといえるが
ある意味そこから出発するのが禅の言語だともいえる

「言語はもともと無限定的な存在を
様々に限定してものを作り出し、ものを固定化する。
ここで固定化とは言語的意味の実体化にほかならない。」
(井筒俊彦「禅における言語的意味の問題」(『意識と本質』)

「意味作用が働いている限り」
「個々の語は現実のある一断片を切り出して
これを固定的に結晶させざるを得ない」のである
つまり分節化することで意味を固定化させる

従って「ゲシュタルト崩壊」では
「意味作用を失った瞬間に言語記号は
記号としての生命を失って死物と化す」だけだが

禅は固定化を嫌い「一切のものを本来無自性」だと見る
その言語は「絶対無分節」「絶対無意味」にありながら
言語的に分節された存在の次元との間で
一瞬閃くようにその「言語の有意味性が成立する」

いうまでもなくその「言語の有意味性」は
すでに分節化され固定化された自明な意味ではない

■松浦寿輝「遊歩遊心 連載62回「中島、カフカ、芥川」(文學界 2024年11月号)
■『中島敦』(ちくま日本文学全集 1992/7)
■ホフマンスタール(桧山哲彦訳)『チャンドス卿の手紙 他十篇』(岩波文庫 1991/1)
■古田徹也『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ 2018/4)
■井筒俊彦『意識と本質』(岩波書店 1983/1)

**(松浦寿輝「遊歩遊心 連載62回「中島、カフカ、芥川」より)

*「この八月は(・・・)ふと思い立ってKindle版『中島敦全集』を買い、端から端まで読んでしまった。今回わたしが初めて知って驚いたのは、中島がカフカを訳していることだった。警句ふうの断章群の一部分を彼は英訳から重訳しているのだ。また『狼疾記』にカフカの「巣穴」からの引用があることもすっかり忘れていて、そうだったのかと改めて膝を打った。」

「わたしはこれから雑駁と言えば雑駁きわまりない感慨を述べようとしているのだが、それは中島敦はやはり二〇世紀の作家なのだというものだ。

 その感慨はもう一つのやじゃり雑駁な感慨と対になっている。今回わたしはKindle版『芥川龍之介全集』もついでにあらまし読み通してしまったのだが、芥川に関してつくづく思ったのは、これは結局、一九世紀のパラダイムの内部で動いている文学でしかないのだなということだった。そして恐らくそれは、芥川のなかにカフカの痕跡(それはむろんたんなる幻想的風味のことではない)がないという事実と無関係ではない。芥川が自死するのは一九二七年だが、カフカの英訳が本格的に出はじめるのは三〇年代に入ってからのことだ(中島の持っていた選文集は三三年間)。」

*「世界の輪郭や秩序が自明のものではなくなり、人間の生が何によっても根拠づけられなくなった————そんな認識とともに始動したのが二〇世紀文学である。それで言うなら、才気の横溢、語彙の豊饒、深く広い教養、どれも凄いがそれでも芥川は結局、一九世紀的な物語作者なのだ。これはべつだん彼の文業の価値を本質的に蔑するための言ではない。もっとも彼の全作品を年代順に読んでいき、最後の数年にますます顕著になってゆく文章の力の弱りように、ややげんなりせざるをえなかったのは事実である。」

「そういう弱さは中島敦の文章にはいっさいない。そしてその強靱さを支えているのは、彼の漢文の素養ではなくあくまで彼の二〇世紀的感性である。」

「中島の二〇世紀的感性の見易い一例は、もちろん「文字媧」————(引用者註:ホフマンスタールの)「チャンドス卿の手紙」やボルヘスの短篇群と親しく共鳴し合い、デリダの『グラマトロジーについて』に引用されても違和感のないあの異形の寓話だが、わたしは彼の文学の頂点をむしろ「悟浄出世」に見る。今回この傑作を読み返し、半世紀前の初読の際と同じ感動を得られたのは嬉しかった。悟浄のけたたまさいい地獄めぐりの旅が一応終わりに近づいた頃、煌々と明るい月光が水底まで射しこむ静謐な場面が来る。砂粒一つ一つがくっきりと見え、小魚たちの腹が白く光っては水草の陰に消えてゆく。こういう恐ろしい一節は芥川全集のどのページにも存在しない。」

**(古田徹也『言葉の魂の哲学』〜「はじめに」より)

*「(中島敦とフーゴ・フォン・ホフマンスタール)は共に、言語のゲシュタルト崩壊の現象を深刻な問題として扱い、言葉が死物と化す悪夢を描くなかで、現実の代理・媒体————しかも、本質的に不完全で、現実を不可避的に歪めてしまうもの————としての言語観を示している。」

**(古田徹也『言葉の魂の哲学』〜
   「第1章 ヴェールとしての言葉/第1節 中島敦「文字媧」とその周辺」より)

*「ひとつの文字をずっと見つめていると、それまで一定の意味と音をもっていたはずなのに、突然、いわばかたちをなくし、単なる無意味な線の集まりにしか見えなくなる。この種の現象は、現在では一般に「ゲシュタルト(Gestalt:かたち)崩壊」と呼ばれ、ゲシュタルト心理学を源流のひとつとする認知心理学の分野で注目されてきたものだ。」

*「たとえば、「今」という文字がこういうかたちをしていることに必然性はない。つまり、全く別の線がその意味をもっていてもよかったのである。それと同様に、他のあらゆるものも、それがいまあるようにあらねばならない理由はない、いま偶然こうあるに過ぎない、と(「狼疾記」の)三造は感じ出す。そしてその意識は、自分の周囲の対象だけでなく自分自身にも否応なく向けられる。」

「これと同様の問題は、中島が「文字媧」とほぼ同時期に書いた小説「悟浄出世」においても扱われている。この作品の主人公である沙悟浄も、当たり前と思っていたものが異質なものに感じられる感覚に襲われ、当然視していた日常の世界が崩壊する事態に直面している。」

「この事態のただなかで沙悟浄が問うのは、やはり、自己と世界の存在の不確かさ、偶然性である。「何故俺は俺と思うのか? 他の者を俺と思うても差し支えなかろうに。俺とは一体何だ?」。「自分の凡て予見し得る全世界の出来事が、何故に(経過的な如何にしてではなく、根本的な何故に)その如く起こらねばならぬか」。彼はこの煩悶を抱いて彷徨し、思索を重ねる。それは「自己、及び世界の究極の意味」を求める思索にほかならない。」

「この物語の終盤には、「思索による意味の探索以外に、もっと直接的な解答(こたえ)があるのではないか」という発想上の転機が沙悟浄に訪れる。「自分は、そんな世界の意味を云々する程大した生きものではない」と思い至り、「そんな生意気をいう前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気が出て来た。躊躇する前に試みよう。結果の成否は考えずに、唯、試みるために全力を挙げて試みよう」————そう彼は決意する。そして、彼のこの心境の変化と呼応するように、観世音菩薩が彼に語りかける。「世界は、概観による時は無意味の如くなれども、其の細部に直接働きかける時始めて無限の意味を有つのじゃ」。「先ずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打ち込め。身の程知らぬ『何故』は、向後一切打ち捨てることじゃ」。彼はこの菩薩の導きに従い、やがて玄奘(三蔵法師)の供となって、天竺行きの難業に打ち込むことになる。」

「この、沙悟浄が救済を得るくだりは、「文字媧」において老博士が辿る無残な運命と対照的である。老博士は、文字と距離を置くように大王に訴え、そのために処罰までされたにもかかわらず、地震のあった日にいたのは、夥しい書物が積まれた書庫のなかだった。周囲のものすべてがバラバラに解体し、無意味な死物と化したことに恐怖した彼は、しかし、沙悟浄のように意味への問いから離れることはできなかったのだろう。彼は相変わらず文字に溺れた。そして、彼は最後には、自分を取り囲む書物たちに潰されて死ぬという、象徴的な結末を向けることになるのである。」

「また、沙悟浄も、意味への問いを完全に忘れられたわけではない。天竺行きの途上でも、「まだすっかりは昔の病の抜けきっていない」彼は、最後にこう独り言をつぶやく。「どうもへんだな。どうも腑に落ちない。分からないことを強いて尋ねようとしなくなることが、結局、分かったことなのか? ・・・・・・どうも、うまく納得が行かぬ」。

*「文字のゲシュタルト崩壊を体験するとき、人は、意味が引き剥がされた単なる線の集合、生命のない無機質な存在ともいうべきものを垣間見る。意味なく、何の必然性もなく、ただそれがそこにあるという感覚に襲われる。それまでその文字は、生活のなかに根を張った、現実的な手応えのある存在だったはずなのに、いまや、よそよそしく不確かな存在に感じてしまう。しかし、幸い、通常はこの種の感覚はすぐに消えるものだ。文字はすぐに再び生命を得て、その文字固有の意味を取り戻す。逆に、「文字媧」の老博士や、「狼疾記」の三造たちは、この種の感覚にいわば釘付けになってしまった人々なのだろう。」

**(古田徹也『言葉の魂の哲学』〜
   「第1章 ヴェールとしての言葉/第3節 まとめと展望」より)

*「言語のゲシュタルト崩壊から回復できないというのは、一般的に見ればかなり異様な事態である。言葉(とりわけ文字)のゲシュタルト崩壊自体は多くの人が体験できることであるとはいえ、普通はその状態からすぐに回復するものである。しかし、老博士とチャンドスの場合には、言葉は不可逆的に死んでいくばかりで、再び息づくということがない。それはなぜだろうか。

 このことは、言葉を現実の(不完全な)代理・媒体とみなす言語観が彼らの物語の前提にある、という点から読み解くことができるだろう。この言語観においては、言葉は、現実を曇らせずに、言うなれば透明であればあるほど————目立たなければ目立たないほど————代理・媒体としてよく機能していることになる。しかし、言葉は現実そのものではありえないから、現実をどうしても曇らせてしまう、とされる。この見方からすれば。言葉がゲシュタルト崩壊を起こして一際目立つ場面とは、言葉が現実の代理・媒体としての役割を全く果たさず、全く不透明な単なる物(インクの染み、音声)と化している状態として特徴づけられる。」

**(井筒俊彦『意識と本質』〜「禅における言語的意味の問題」より)

*「有意味と無意味の問題を禅はどう考えるであろうか。」

「禅はその活動のあらゆる場において、無意味性という現象を重視する。「無意味」は禅の語録や考案集のいたるところに顔を出す。言語以前の行動の次元においても、禅は既に無意味性に充ちている。」

*「「言語は存在の家だ」とハイデッガーが言った。そこには言語にたいするこの哲学者の深い信頼感がある。もっとも、ここでハイデッガーが考えている「言語」とは、日常的な、つまり惰性的で非創造的な言葉ではなくて、例えばヘルダーリンのような詩人によって詩的創造的に使用されたみずみずしい言葉のことではあるが。

 これに反して禅では「言無展事」(洞山守初)という。言語は存在をそのままに、あますところなく提示することができぬ、というのである。ここには言語にたいする深い不信感がある。この不信の故にこそ、禅は不立文字を標榜するのだ。しかし言語にたいするこの不信は日常的、慣習的言語に対するそれであることが注意されなくてはならない。非創造的言語への不信である。こう考えてみると、禅の「言無展事」はハイデッガーの「言語は存在の家だ」という言葉を裏側から言ったものにすぎないことがわかる。」

*「言語はもともと無限定的な存在を様々に限定してものを作り出し、ものを固定化する。ここで固定化とは言語的意味の実体化にほかならない。

 だが、禅はものの固定化をなによりも忌み嫌う。一切のものを本来無自性と信じ、かつそう見るからである。本来無自性とは、永遠不変の、固定した「本質」などというものをもたないということである。山が山性によってがっしりと固定され、山以外の何ものでもなく、また何ものでもあり得ないという柔軟性を欠いた存在論は、哲学的にも前哲学的にも、山の本当のあるがままにたいして人を盲目にする、と仏教は考える。」

*「意味作用が働いている限り————意味作用を失った瞬間に言語記号は記号としての生命を失って死物と化す————個々の語は現実のある一断片を切り出してこれを固定的に結晶させざるを得ない。そのような言語の本来的機能を活かしながら、しかも意味の結晶体を溶解させようと、禅はする。結晶体を結晶体の姿で見ることにとどまらずに、本源的非結晶体が結晶体に転じ、そしてまたたちまちもとの非結晶体にもどる絶妙な全過程を、電光ひらめく一瞬の言語活動に捉えようとし、捉えさせようとする。自然的言語が極度に歪曲されることは陶然であろう。この歪曲が普通の人の目には「無意味」と見える。」

*「禅ではよく主客未分とか、主客の別を超えるとかいうが、これは主(認識主体、「我」)と客(認識の志向する対象としてのもの、事物的世界)を超脱して遠い地平の彼方、茫漠模糊たる世界に行ってしまうということではない。主と客をそれぞれに主と客として成立させる可能性を含むつつ、しかもそれ自体は主でも客でもない或る独特の「場(フィールド)」の現成を意味する。主と客、我とものとを二つの可能的極限として、その間に張りつめた精神的エネルギーの場。それは(・・・)それ自体では主でも客でもない。ものでもないし、またそれを見ている我でもない。つまりそこには何もない。絶対無分節であり、絶対無意味である。臨済はこれを「人境俱奪」と呼ぶ。」

*「絶対無分節と、その絶対無分節者がそのまま直接無媒介的に顕現して成じた分節態との間に、本来的な禅の言語は働く。仏教の術語を使えば、聖諦と俗諦との間の振幅が、禅的言語の展開する場面である。聖諦とは存在の絶対非分節的次元であり、俗諦とは言語的に分節された存在の次元である。(・・・)

 禅的言語は必ず聖諦から発する。聖諦から発出した言葉は、一瞬俗諦の地平の暗闇にキラッと光って、またそのまま聖諦にかえる。この決定的な一瞬の光閃裡に禅的言語の有意味性が成立する。」

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