慶長18年(1613)1月25日は姫路藩初代藩主で姫路城を現在の規模に拡張した池田輝政が死去した日。信長や秀吉に仕え長久手合戦で父恒興と兄元助が討死したため家督を継ぐ。亡くなった北条氏直の正室だった家康の次女督姫を秀吉の仲介で継室に迎えて関ヶ原合戦では東軍に属し姫路を与えられた。
天正12年(1584)4月6日は小牧で家康・織田信雄と対峙していた秀吉が三河に向けて別動隊を出した日。羽柴秀次を総大将に池田恒興、森長可、堀秀政を擁した三河奇襲作戦。これを察知した徳川軍が翌日夜ひそかに小牧山を出て長久手合戦が始まる。先に動くことが吉と出るか凶と出るか難しいです。
天正12年(1584)4月9日は徳川軍が長久手の戦いで羽柴軍を破った日。小牧で家康と対峙する秀吉は羽柴秀次を総大将にして別動隊を三河へ向かわせた。察知した徳川軍とこの日激突。秀吉は池田恒興・元助父子、森長可といった武将を失う敗北を喫した。この後は再び睨み合いへ突入し停戦へ向かう。
天正18年(1590)5月27日は秀吉の小田原攻めの陣中にて名人久太郎こと堀秀政が病没した日。信長の側近として頭角を現し秀吉にも重用された。小牧での対陣から徳川の三河を目指し別動隊として参加した長久手の戦いでは池田恒興、森長可が討死する中で秀政は反撃し別働隊の崩壊を防いだという。
天正10年(1582)12月20日は秀吉が柴田勝家と結ぶ織田信孝(信長三男)の岐阜城を包囲し和議を結んだ日。織田家当主と決まった信長の孫・三法師を信孝が安土城へ送らないことを口実に信雄(信長次男)と秀吉が岐阜城を包囲。越前の勝家は雪で動けず丹羽長秀や池田恒興は秀吉らを支持した。
天正10年(1582)6月27日は信長・信忠亡き後の織田家後継者を決める清須会議があった日。通説では信長の次男・信雄と三男・信孝が争う中で4重臣が話し合い秀吉が信忠の嫡男・三法師擁立で場をまとめ主導権を握ったとされた。しかし初めから三法師を支える体制ための会議だったともいわれる。