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戦略・戦術解説シリーズ ◇小牧長久手の戦い◇

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【ゆっくり解説】小牧・長久手の戦いに関する一考察(長久手の戦い篇) - YouTube

これは『どうする家康』の小牧長久手の戦いの後、書こうと思って下書きしていたものです。
見つけて書こうとしましたが、当時書きたかったであろう何かを思い出せません。
ウィキペディアを引用した後、自分なりの戦略分析とか書きたかったのかなあ?(笑)

【概要(ウィキペディア)】
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。
尾張北部の小牧山城・犬山城・楽田城を中心に、尾張南部・美濃西部・美濃東部・伊勢北・紀伊・和泉・摂津のはしば戦が行なわれた。
また、この合戦に連動した戦いが北陸・四国・関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。
ほかに「小牧・長久手の役」・「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている。

犬山城の占拠

現在の犬山城
天正12年(1584年)3月13日、家康が清洲城に到着したその日、織田氏譜代の家臣で織田軍に与すると見られていた池田恒興が突如、羽柴軍に寝返り犬山城を占拠した。家康はこれに対抗するため、すぐさま翌々日の15日には小牧山城に駆けつけた。

羽黒の戦い

羽黒城
3月15日、池田恒興と協同せんとする森長可は兼山城を出て、16日羽黒(犬山市)に池田勢より突出したかたちで着陣した。しかし、この動きはすぐに徳川軍に知られ、同日夜半、松平家忠・酒井忠次ら5,000人の兵が羽黒へ向けてひそかに出陣する。翌3月17日早朝、酒井勢は森勢を奇襲。酒井勢の先鋒、奥平信昌勢1,000に対抗し、押し返していた森勢だったが、側面から入ってきた松平家忠の鉄砲隊の攻撃により後退し、さらに酒井勢2,000が左側より背後に回ろうとするのを見て敗走した。森勢の死者300余人という。

小牧における対陣

現在の小牧山と小牧山城
敵襲の心配がなくなった家康は、3月18日に小牧山城を占拠し、周囲に砦や土塁を築かせ羽柴軍に備えた。 秀吉は、3月21日に兵30,000を率いて大坂城を出発、3月25日に岐阜に進み、3月27日に犬山に着陣する。

家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの間、 徳川方が最前線に、宇田津砦や蟹清水砦、田楽砦、北外山城など、 羽柴方が最前線に、二重堀砦や岩崎山砦、久保山砦、上末城など、両軍が砦の修築や土塁の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり、挑発や小競り合いを除けば、戦況は膠着状態に陥った。

岩崎城の戦い
三河中入り作戦
両軍は小牧付近にて対陣状態におちいり、たがいに相手の出方をうかがっていた。 4月4日、池田恒興は秀吉のもとを訪れて献策した。兵を三河に出して空虚を襲い各所に放火して脅威すれば徳川は小牧を守ることができなくなるであろうと。 5日朝、恒興は秀吉のもとを再度訪れ、森長可と共に羽黒戦の恥を雪ぎたいと述べた。 秀吉はついにこれを許可し、森長可らを主として支隊を編成し、明6日三河西部へむけて前進すべしと命令(三河の中入り作戦)。 支隊は上末城主落合氏など土豪地侍や郷士の案内のもと、4月6日夜半出発した。

各隊の主な編組は以下の通り:
第一隊 - 池田恒興 - 兵5,000人
第二隊 - 森長可 - 兵3,000人
第三隊 - 堀秀政 - 兵3,000人
第四隊 - 羽柴秀次 - 兵9,000人
羽柴秀次の出陣

現在の岩崎城模擬天守
家康は4月7日に羽柴秀次勢が上条城・大留城など篠木周辺(春日井市)に、2泊宿営した頃に近隣の農民や伊賀衆からの情報で秀次勢の動きを察知。 4月8日、地元の丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高ら4,500人が支隊として小牧を夕方に出発して、20時小幡城(名古屋市守山区)に入り、付近の敵情を探った。 家康と信雄の主力9,300は20時小牧山を出発し、24時小幡城に着陣。織田・徳川軍は主力の到着にともない小幡城で軍議をおこない、兵力を二分して各個に敵を撃破することに決した。9日2時、織田徳川軍支隊は羽柴秀次勢を攻撃せんと出発した。

秀次勢は家康が小幡城に入った8日に行軍を再開し、9日未明には池田恒興勢が丹羽氏重(氏次の弟)が守備する岩崎城(日進市)の攻城戦を開始する。 氏重らは善戦したが、約三時間で落城し玉砕した(岩崎城の戦い)。この間、羽柴秀次、森長可、堀秀政の各部隊は、現在の尾張旭市、長久手市、日進市にまたがる地域で休息し、進軍を待った。しかし、その頃すでに徳川軍は背後に迫っていた。

白山林の戦い
岩崎城で攻城戦が行われているころ、羽柴秀次勢は白山林(名古屋市守山区・尾張旭市)に休息していたが、9日4時35分ごろ後方から水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高勢、側面から榊原康政勢に襲撃された。この奇襲によって秀次勢は潰滅する。秀次は自身の馬を失い、供回りの馬で逃げ遂せた。また、目付として付けられていた木下祐久やその弟の木下利匡を初めとして多くの木下氏一族が、秀次の退路を確保するために討ち死にした。

桧ヶ根の戦い

色金山歴史公園から見下ろす御旗山
羽柴秀次勢より前にいた堀秀政勢に、第四隊に参加していた長谷川秀一の遣いから秀次勢の敗報が届いたのは約2時間後のことであった。堀勢は直ちに引き返し、秀次勢の敗残兵を組み込んで桧ケ根に陣を敷き、迫り来る徳川軍を待ち構えた。秀次勢を撃破して勢いに乗った徳川軍は、檜ヶ根(桧ケ根、長久手市)辺りで堀勢を攻撃したが、返り討ちにされて逆に追撃された。徳川軍支隊の死者280余とも500人ともいう。

織田徳川本隊は、9日2時に小幡城を出発して東へおおきく迂回し、4時30分ごろ権堂山付近を過ぎて色金山に着陣。そこで別働隊の戦勝と敗退を知り、岩作をとおり富士ヶ根へ前進して堀秀政勢と池田恒興・森長可勢との間を分断した。この時、秀政は家康の馬印である金扇を望見し、戦況が有利ではないことを判断、池田と森の援軍要請を無視して後退した。

長久手の戦い

長久手古戦場

安昌寺の僧が長久手の戦いの戦死者を埋葬供養した首塚

色金山のふもとに位置する安昌寺
岩崎城を占領した池田恒興、森長可に徳川軍出現の報が伝わり、両将は引き返しはじめた。そのころ、家康は富士ヶ根より前山に陣を構えた。右翼に家康自身3,300人、左翼には井伊直政勢3,000人、これに織田信雄勢3,000人。一方、引き返して対峙した恒興・森勢は右翼に恒興の嫡男・池田元助(之助)、次男・池田輝政勢4,000人、左翼に森勢3,000人、後方に恒興勢2,000人が陣取った。

4月9日午前10時ごろ、両軍が激突。戦闘は2時間余り続いた。 戦況は一進一退の攻防が続いたが、前線に出て戦っていた森長可が狙撃されて討死して池田・森軍左翼が崩れ始めると、徳川軍優勢となった。 池田恒興も自勢の立て直しを図ろうとしたが、永井直勝の槍を受けて討死にした。 池田元助も安藤直次に討ち取られ、池田輝政は家臣に父・兄は既に戦場を離脱したと説得され、戦場を離脱した。 やがて恒興・森勢は潰滅、合戦は徳川軍の勝利に終わり、追撃したのち小幡城に引きあげた。 この日の長久手の戦いにおける羽柴軍の死者2500余人、織田徳川軍の死者590余人という。

秀吉は9日に陽動として小牧山へ攻撃をしかけている。 午後に入って白山林の戦いの敗報が届き、秀吉は3万人の軍勢を率いて戦場近くの龍泉寺に向けて急行した。 しかし、500人の本多忠勝勢に行軍を妨害される。 夕刻、「家康は小幡城にいる」との報を受け翌朝の攻撃を決める。

家康と信雄は夜間に小幡城を出て小牧山城に帰還した。 秀吉は翌日この報を聞き、楽田城に退いた。 ただし、本多忠勝が秀吉と戦闘に及んだ日は秀吉の書状写や忠勝の書状写から五月朔日であることが窺えるので、長久手合戦での家康本隊の戦闘に不安を感じたからではなく、進軍する秀吉本隊に対する危機感からではないかと思われる。

【感想】
・秀吉10万。家康3万なら普通に考えれば秀吉の力押しでも十分勝てる戦力差。
・小牧山における家康の兵力と、小牧山攻撃用の秀吉の兵力がどれぐらいであったのか?仮に小牧山1万、秀吉軍5万として中入りに2万割いたと見積もる。(岡崎に1万、浜松に1万配置)。
・この中入り別働隊の目的は普通に考えれば小牧山城の徳川兵の釣り出しだろう。信玄の三方原の戦いの釣り出しと同じである。
・信玄のときとの違いは秀吉軍は2セットの部隊を持っていること。釣り出しに乗り城から討って出れば秀吉全軍との対決になり、小牧山軍は敗北。その後の各個撃破が予想される。
・徳川が動かなければ岡崎城攻めに掛かれる。どう転んでも秀吉軍有利である。
・ただ、徳川方が動かなければ岡崎が直ちに落城するとも思えず、逆に秀吉軍が糧道を絶たれ挟み撃ちに合う可能性もあることはある。(岡崎城の守備兵が少なければ話は違ってくるが)

※自分であれば、あえて小牧山から出撃はしない。

・家康が出てくるか来ないかが本作戦のキモであったことは確かだろうが、そのためには両軍の動くタイミングが重要となる。
・家康の勝機は別働隊を奇襲しできるだけ早く勝敗を決する以外にはない。
対して秀吉軍は家康の動きがどうであろうと対応可能な余裕の状況にあったはずだ。
・中入りの目的は小牧山の釣り出しは助攻としての意味合いを持ち、主攻は岡崎城であったのかもしれない。しかし小牧山からの攻撃はあるものとして動いていたはず。これで秀吉軍が負けるとはどうにも考えにくい。

【戦の終わらせ方】
※地震があったことで和議になったという説を理解した上で、秀吉も支配体制が盤石ではなく、徳川方が孤立していたわけでもない。
故にどこかで手打ちを模索していたのではないかと私は考える。
徳川が崩壊し勢力バランスが崩れるのは回避したいというのがこの時点での秀吉側の望みであったということだ。

そのための人柱が池田と森(信長の寵臣でうるさい存在)。
大河ドラマでは徳川軍が出撃を隠すために堀を利用したという解釈で話が展開した。しかし間者は方々に配置されているはずであって、徳川が動けば(その気配も探られているはずである)即秀吉側も動けたはずと考える。
そうなれば徳川必敗。しかし同時に豊臣側も相応の損害を受け弱体化。
徳川領を維持するのは困難で、周囲の国から攻められる恐れもある。

そこで小牧・長久手の戦い
・池田、森は先鋒。秀次は後衛。
・家康出陣で秀次はすぐ後退。
・池田、森は討ち死に。
・家康出陣なら、遅れて知っても秀吉が出陣してもいいはず。秘匿作戦でもないはずで、全軍出陣準備をさせていて不思議ではない 兵力差があるなら、城から出た家康軍には勝ち目はない。
・言われているような兵力差がなかったのなら秀吉が動かないのは分かるが、中入りはしない 邪魔者を消すのが目的では。

というようなことを書きたかったらしいです。
多分書きたかったのは、秀吉の勢力圏は周囲にまだ敵が多く、徳川を潰すより味方にしておいた方が統治しやすいと考えた。
その手打として森と池田に犠牲になってもらい、いくさとしてのメンツを双方が立てた上で和睦になった。
ということです。これは別に私のオリジナルでもありません。

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