永禄3年(1560)1月27日は遅れていた正親町天皇の即位式が行われた日。後奈良天皇の崩御に伴い践祚したが朝廷の財政は逼迫しており即位の礼が行えなかった。2年以上経過して毛利元就らの金銭援助によりようやく実現。その後は天下人の信長や秀吉が財政援助し天皇権威が彼らの後ろ盾となった。
天正9年(1581)2月28日は信長が御所東門外で諸将に馬揃を行わせ正親町天皇らが見物した日。南北8町にわたる馬場を新設した大パレードを挙行し天皇や公家衆さらにイエズス会の宣教師たちも見物した。馬揃の編成は丹羽長秀を先頭に10番組まで続いた。なかには公家衆や旧幕臣も含まれていた。
文禄3年(1594)1月4日は医師の曲直瀬道三(まなせどうさん)が88歳で死去した日。道三は正親町天皇・将軍足利義輝・織田信長や毛利元就など戦国大名の診療した医師。医学書「啓迪集」や「雲陣夜話」など数多くの著書を残した。また医学校「啓迪院」を創設し後進を育てることにも力を注いだ。
永禄3年(1560)1月27日は正親町天皇の即位式が行われた日。3年前に後奈良天皇が崩御したが毛利元就の金銭援助によってようやく実現した。その後は天下人の信長や秀吉が財政援助し天皇権威が彼らの後ろ盾となる。権威と権力を持つ者同士の共存関係があれば戦乱も治まるということでしょうか。
天正8年(1580)閏3月5日は信長と本願寺の和議がなり顕如らの誓紙を朝廷に呈上した日。反信長勢力が衰退し正親町天皇の調停を受け入れ10年に渡る石山合戦が終息へ向かう。顕如の退去後も抵抗派が完全退去するのは8月のこと。誰かに間に入ってもらわないと互いに引けない状態ってありますね。
天正13年(1585)10月7日は千宗易が正親町天皇より「利休」の居士号を勅賜された日。秀吉が開いた宮中茶会に参加するため町人の宗易が参内できるように。茶道は天皇も嗜み利休がその第一人者と公認されたようなもの。茶道といえば浮かぶ人ですが秀吉に天皇と誰に認められるかは大きいですね。
2024/6/23令6年日7:05おはようございます! 昨日は二食作朝一飛出、ハナ酒意見交、イ京都大垣フルインクル、高校教育、教育他手、郷、夫合流移動リアルゼミ熊本、歴史深な番組小ではら研、ガチ子達未来鑑研鑽、九条葱餃子なマジ懇親、夫運転、子送金謝罪麒麟スプバレうまタイムでした
天正2年(1574)11月22日は医師・曲直瀬道三が正親町天皇に医学書「啓迪集(けいてきしゅう)」を献上した日。道三の名声は全国に響いており自らの治療経験や多くの医書を参考に編纂した。本書は8巻から成り74門にわけられ、類似の病気を一括し各病気について詳しく述べられている。
天正13年(1585)10月7日は千宗易が正親町天皇より「利休」の居士号を勅賜された日。秀吉が関白に叙任された御礼として前例のない宮中茶会を開催。秀吉に随伴した町人の宗易が参内して茶を供するため利休居士の号が勅賜された。茶道は天皇も嗜み利休が第一人者と公認されたことを意味した。
天正9年(1581)8月30日は信長が命令に従わない見せしめとして高野聖1300人を捕らえて殺害した日。信長に背いた荒木村重の家臣を高野山が匿い引き渡し拒否。山内へ差し向けた探索兵の殺害が信長の怒りに火を着け引き金となった。さらに信長は三男信孝に大軍を預け高野山への攻撃を命じた。