歴史小説「Two of Us」第4章J‐28 (The Epilogue)
~細川忠興&ガラシャ珠子夫妻の生涯~
第4章 On A ”SABO Tea Room” About Some Last Scenes
J‐28
細川ガラシャ珠子は、400年以上も大嘘をつき通しました。忠興もまた、同じく最後の最後、辞世の句で嘘をついたのです。
けれどもその二つの辞世の句は、二人にとっては真実そのものだったのです。二人にだけ分かり合えるメッセージは、魂の真実そのもの。第三者の受け取り方は、まったく正反対の解釈が主流でした。
【散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ】
一般的には、『土岐氏は今絶えて行くけれども、散り際を弁えているからこそ、人は花を咲かせるように輝いているのだ』と、大意を解釈されて来ました。
けれども、このパートナーシップにとっては、自害や絶えることではないのです。桜の花は、どんな戦場に於いても散ってはまた、春と共に満開を咲き誇るのです。この場合、明智玉の産まれた季節に満開と成る、遅咲きの枝垂れ桜のことです。『生きていれば、また桜の咲く頃いつか逢いましょう』という和歌なのです。
細川与一郎忠興にとっては、世界遺産にも登録された桜の木『プリウス・タジマエンシス・マキノ』のように、産まれた時から外来種と交配したこの山桜のごとく、自由闊達でアイデンティティーのはっきりした生命力の強い、唯一無二の愛する女性だったのでしょう。
この珍種の枝垂れ桜は南蛮貿易初期から今現在もなお、500年以上も、但馬地域の正福寺の境内に、毎年毎年咲き続けています。そして、ガラシャ珠子は生き延びた証に、丹波地域の雲源寺に於いて、枝垂れ桜を植樹しました。415年後の同じ頃、私はその枝垂れ桜の大木を見つけました。
その場所に、キリシタンで歌会に参加出来る者しか使わない南蛮切支丹柄彫りの手洗い鉢と、山道の灯籠を確認しました。
細川ガラシャ珠子の菩提寺や教会は、計4つ存在します。
法諡は『秀林院殿華屋宗玉大姉』として、大阪・崇禅寺と京都・大徳寺塔頭と高桐院、そして肥後熊本の泰勝寺に墓所は祀られています。
忠興は、教会葬に参列した後、大坂玉造屋敷跡には玉造カテドラル教会を建立し、その時点では亡くなったものとして追悼されていました。
けれどその五年後には、生き延びていたガラシャ珠子と、京都府綾部市七百石町の雲源寺にて、歌会で逢瀬を繰り返した史跡が残されていたのです。
細川忠興は、『細川熊千代 (幼名)→ 長岡熊千代→ 細川与一郎忠興→細川三斎宗立(雅号)』と、改名を繰り返していますが、逝去された正保弐年拾弐月弐日(1646年1月18日)、『細川忠興 丹後少将戒名松向寺殿前参議三斎宗立大居士』として永眠されました。墓所は、珠子と同じく熊本の泰勝寺、大徳寺高桐院と、細川家菩提寺の熊本妙解寺跡北岡自然公園に存在します。
定説では、細川忠興から数えて第8代細川治年(はるとし)に嫡男は生まれず、代わって四男立孝(八代城主~別れ宇土藩初代当主)の嫡流立礼(改名・斉滋/なりしげ)が養子と成り、以後細川家末代まで肥後宗家として繋いで行ったとの事。この四男立孝も側室畿知の子として伝えられて、ガラシャ珠子の血統は8代で絶えたとされています。
しかし諸説の中でも丹波の上原家では、生き延びて無名の『お玉』として隠れ住んでいた時期と生年が一致するため、真実は異父同母の嫡子、つまり紛れもなく珠子を母とする明智の嫡流との説を採りました。
ガラシャ珠子の父明智日向守十兵衛光秀は、丹波平定の際、当時延暦寺宗派だった丹波の光明寺をも焼き討ちし、今では仁王門しか残されていませんが、その地の山間には武田氏別れの上田氏、黒井城落城を助けた波多野氏などが、脈々と生き延びた豪族の血統を現在も繋いでいるのです。
上原氏もまた、丹波地域で生き延びた武田勝頼(諏訪頼重の嫡孫)の末裔です。物部城主上原氏が(江戸時代は久木氏に移封)、生き延びたガラシャ珠子を見守っていました。この上原氏は、忠興の代の家老松井康之の子孫を松井寄之として縁組しています。
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