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河内将芳著『織田信長と京都』を刊行します

 11月の新刊、河内将芳著『織田信長と京都』(四六判・並製・224頁。定価2,500円+税)が刷り上がってきました。

 本書の目次は下記の通りです。

プロローグ――京都のなかの信長の足跡
京都と信長の関係/信長の足跡をたどる/短かった信長の在京

第一章 「武家御用」の時代(永禄十一年~元亀四年)
 Ⅰ 「武家」足利義昭のために(永禄十一年~永禄十三年)
  信長の入洛で京中騒動/足利義昭が入った細川亭/信長が入った古津所は何を意味するか/本国寺の変を機に義昭御所を普請/
  織田弾正忠所はどこか/信長が妙覚寺に移った理由/寄宿先として好まれた日蓮宗寺院/寄宿を支える銭と米

 Ⅱ 京都と元亀争乱(永禄十三年〔元亀元年〕~元亀四年)
  諸国の侍に届いた信長の触状/義昭御所に近い半井驢庵所/信長を苦しめた元亀争乱/利息があてられた禁裏様御賄/
  本能寺がはじめて宿所とされる/徳大寺殿御屋敷、信長の屋敷として普請はじまる/義昭と敵対し洛外を焼き討ち/
  上京焼き討ちで焼け野原に/焼き討ちされなかった下京/義昭が京都を退去

第二章 「禁中守護」の時代(天正元年~天正九年)
 Ⅰ 「禁中」を守護する右大将(天正元年~天正四年)
  信長の申請で天正に改元/浅井・朝倉氏の滅亡で道中が安全に/変わらず妙覚寺を宿所にした理由と「大樹若君」/
  相国寺を城に構える/「禁中守護」のための相国寺寄宿/妙覚寺本堂の前で出迎える/右大将任官のため上洛/
  二条殿を移し報恩寺を普請/信長が接収した二条殿御屋敷/義昭御所の解体と信長の思惑/進められた上京の復興/
  思いのほか早く復興をとげた「西陣」/あたらしい市街地・新在家絹屋町

 Ⅱ 京都と安土の往復(天正五年~天正九年)
  信長が二条殿御屋敷へ移る/大雲院御池寺屋敷地割絵図にみる「二条殿御屋敷」跡地/右大臣・右大将辞職の衝撃/
  織田信忠の上洛と昇進の意図/二条殿御屋敷と安土城の関係/京都・安土間はどのルートを通ったか/二条殿御屋敷での日々/
  二条殿御屋敷を誠仁親王へ進上したのはなぜか/妙覚寺と本能寺に役割の変化/内裏の要望でおこなわれた御馬汰/
  町人たちによって作られた御馬汰の馬場/二度の御馬汰は大盛況

エピローグ――天正十年、信長最後の上洛と「京都の儀」
  生涯最後の正月となった天正十年/信長のもとへ届いた武田氏三人の首/両御所から届いた「将軍になさるべきよし」/
  最後の上洛/最後の一日、信長の油断/六月二日/「京都の儀」のゆくえ

故地を訪ねて
1古津所跡、細川亭跡、宝鏡寺/2義昭御所跡、妙覚寺跡/3半井驢庵所跡/4徳大寺殿御屋敷跡/5相国寺/6円福寺の前/
7二条殿御屋敷跡/8本能寺跡①/9本能寺跡②


 織田信長は足利義昭と奉じて京都に入京して以降、義昭や朝廷など、否が応でも京都に関わりを持つことになりました。しかし、自身の本拠は岐阜城や安土城に置き、決して京都に拠点は設けず、上洛した際には宿所に滞在することを旨としました。それは義昭を京都から追放した後も変わることはありませんでした。

 はたしてそれはなぜなのか?

 本書では緻密な「信長在京表」をもとに信長の行動様式を分析することで、「不幸」だった信長と京都との関係を読み解きます。

 また、信長は妙覚寺や本能寺など、日蓮宗寺院を宿所として多く用いました。はたして、それもまたなぜなのか?あまり問われることのない、「本能寺の変は、なぜ本能寺で起きたのか?」にも迫ります。
 
 史料とともに「現場」も重要視する著者独自の視点で、信長時代の京都の実像の解明に取り組んだ労作です。京都に残る信長の史跡も写真・図版で解説し、史跡巡りにもオススメの1冊ですので、ぜひご一読くださいませ。

 ちなみに本書は、2018年11月に淡交社から刊行された『宿所の変遷から見る 信長と京都』に加筆・修正し刊行するものです。元本との違いも楽しみながら読み進めていただければ幸いです。

 なお、『豊臣秀吉と京都』『徳川家康と京都』も順次刊行予定ですので、どうかお楽しみに!!
                             文責:丸山

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