関わること、関わらないことの積極的な区別をどう考えればいいのか。数ヶ月そんな感じ 話さないことにははじまらないけど、話したからといってはじまるわけではない。自分は前者のハードルは低いけど後者にうちのめされる 人それぞれだからね、を使ってそこから降りることはいつだってできる
『物質と記憶』の自分が世界の中に組み込まれてる感じを、それをそのまま実感だと理解していくのがむずい たぶん、それぞれ切り離されているようにイマージュの中で感じる、みたいに一旦イマージュを経由させていくんだと思うんだけど、理解にそのフレームのイマージュを作っていく困難というか
移人称使って書き物する方は、都度地の文の文体(モノを考える順序やクセ)も変えてるのかな。それとも"カメラ"だから変えないでいいってことにしてるのだろうか。
森に入るとすぐに方向感覚がきかなくなる。街や道路の方向感覚ではないものなと腑に落ちる。スマホの時刻を見て、日の傾きの視界に反射させる。
ずいぶん前に歯医者で、「痛いですよね」と言われたとき、ああこの人はおれが痛いと思っていることがわからないんだな、とわかったときのことを思い出す。あのとき何かが剥がれた。それかそれより前にもう剥がれていたのに気づいた。そのときはもう20代だった。
愚痴りたいことがここ数日溜まっているのだが、全てを吐き出そうとすると軽く一万字は超えると思われるので、グッと堪えてる。
とりあえず、眠るわ〜
「また明日」と人に言ったのはいつぶりだろう。次はいつ言えるかね。今度帰郷するときに父にそう言うかもしれない。どんな気持ちになるか、想像つかない。