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傘を忘れずにすんだ 2024/11/24週

 少し遅めの仕事終わりで、コウが最近よく行っているという店に向かっていた。
 傘をさすかどうか迷うくらいの小雨が降っていて、アキが折りたたみ傘をひらこうとしたとき、置き傘とその日に持ってきたビニ傘の2つを持っていたコウが、「これ使ってくださいよ」と置き傘の方を渡してきてきた。

 アキは片方の手で傘をさしながら、ひらきかけていた折りたたみ傘をうまく畳めずに案内されるままにまばらな人を避けながら早足のコウに付いて歩いていた。

「つか、置き傘そのまま仕事場に置いときゃよかったんじゃないんか」
「たしかに。あー、でも、言われたらそういうことになるけど、自分にとっては忘れ傘だったんです」
 アキは笑って、「この傘はいま一瞬だけ置き傘に変わって、また忘れ傘に変わったってことか」
「そう、失くし傘にならないように、席まで持っていくか。まあいいか」

 コウは店のドアから入ったすぐ側にある傘立てにビニ傘をさしながら真面目な顔をしていた。失くし傘の量産についてひとかどの意見がある、という感じだね、とアキは傘をさして、店の女性が案内したカウンター席にリュックをかけて座った。カウンター10席くらいと4人がけのテーブル席が2つ、ドアの正面にはボリュームを小さくしぼったバラエティー番組が流されていた。

 カウンター席には、常連の雰囲気の男性ひとりと仲の良さそうな男性2人組がピザを食べながらビールを飲んでいた。アキはすぐにそこが良い店だと思うようになって、落ち着いてコウと話しはじめることができた。

「いやー、自分すごいひとみしりですからね。そういうとき何話していいかわかんないんですよ」
「外から見てるとよくわからんけど、自分の意識としてはそうなんか。なるほど、ひとみしり」

 アキはふといつか読んだ本の中で扱われていた冗長性という考え方のことを思い出していた。たしか、その本の中に書いてあったのは。

 ある人が歩いている。夏の日照りの日かもしれない。川沿いの土手を歩いていて、視界は川の流れやその流れがひっぱっていく先の眺めがつくっている。ふと自分の歩いて行く先に大きめの葉っぱが落ちている。緑ではなく、黄色や部分的に赤く色づいた落ち葉。その人はその葉がどこから落ちてきたのか周りを見回す。彼はその葉が近くの木が落とした葉であると意識しないままに考えている。決めつけていると言ってもいい。ではその色は、大きさは、それに適合すると思えるような何かが周りにあるのか。

 あるフレーズはどう捉えられるのか。
 自分たちはそこにある種のパスワードのようなものがあると思っていて、そのパスワードがいかにも適切に思えるかどうかに自信が持てない限り、自分から話しはじめることがやりづらくなるのかもしれない。

「たとえばそういういうのが宙ぶらりんになっていると思っていることをひとみしりって考えてみることもできるんかな、と思ったけど。でもそういうのって」
「お互いさまだろ、って言いたいんですよね。難しい話する前にそんなんことわかってますよ。っと、回りくどいですね」
「違うって、自分のこと考えてたの。そういうこと出来るようになりたいじゃんか」

 そういうこと、って何だろうな。
 思いがけず自分で言ったことに興味を惹かれた。

 小さいイベントスペースに黄色い椅子がふたつ並んで置かれていた。作家の前に互いに見知らぬ二人が座っている。参加者がそこに座っている人を眺める。片方が話し始める。助けて欲しい、と叫んでいるようだった。人によってはそれは叫びではなく、本を読んでいるみたいだった。また違う人はいかにも自分の友達とそうしているように話し始めた。でもそのときに隣に座っている人は難しい顔をしていた。

「あのときに俺、作家に留置所だって言われたんだよ。笑っちゃった。若いときに悪さして、留置所に入れられたときに自分より全然年上の男が一緒の場所にいて、って。そうみえるって。でも今でもそんときのことを思い出すことがあるって」
「そういうことがやりたい、ってのも留置所あいだに挟むと違う感じになってきますね。でもおれも思ってますよ。全部ぐずぐずにしたいって。こういうパスワードでしょ、っていかにも自分があるっていう風な人がいたら」
「ほんとあんたは意地悪ですね」

 雨があがっていた。店主が店先まで挨拶にきて、アキはまた来たいと思った。傘は忘れずにすんだ。

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heno
少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。