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1月26日
インフルエンザにかかった前後で心境の変化のキッカケになったと後で気づくようなことがあって、それはそれでと思って付き合ってきた気持ちが剥がれていた。まあこれで楽になったとも考えられるかと思ったら、日常の張りみたいなものも一緒に剥がれたみたいで所在ない。
そういえば昨日も凧揚げの話をしながら張りーテンションの日記を書いていたんだった。もしそれが張りなのだとすれば、何と何の間の張りなのか。もし一方が自分が上で書いたように「日常の」というカタチで形容できる何かだとして、片っ方の端には何があったのか。それはそもそも自分に関係するものだったのか。
朝起きて、眼鏡をかける。左手側にあったのを都度思い出すでもなく、習慣でそうなっているのを手にとって顔にひっかける。朝起きると自分とメガネの間に何かしらテンションがかかる。こういうのだとイメージしやすい。近頃は老眼が進んでメガネを外すことも多い。
それで思い出したけど賢治の『カイロ団長』にもそういうことが書いてある。これもよくわかる。
「ほんとうにねい。おいら、お酒をなぜあんなにのんだろうなあ。」
「おいらもそいつを考えているんだよ。どうも一ぱい目と二杯目、二杯目と三杯目、みんな順ぐりに糸か何かついていたよ。三百五十杯つながって居たとおいら今考えてるんだ。」
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