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「食べたい気持ち」〜自分との関係 | 莉琴
以前マクロビオテック(玄米菜食)の料理教室へ通っていた。
類友ゆえか、一食入魂のわたしがご縁をいただいた先生は「おいしいものが好き」「料理が好き」などを超え、おいしいものを作る意欲の権化のような、それを生業にも生き甲斐にもされているようなかただった。
マクロビオテックの料理本では「大豆ミートのミートローフ風」など、肉や魚料理を菜食のみでいかに作るかというレシピも多かったが、先生から”もどき料理”を教わることは一切なかった。
そもそも「肉や魚を使わなくてもこんなにおいしく作れますよ」という考え方をされていない。
肉や魚を使わずに!というより、野菜だけで十二分においしく、それ以外の入る余地がないと言う方が合っていた。
ご自身の体験から菜食料理をつくる流れに自然と行き着いたからかもしれない。
シンプルなのに調味料や素材の組み合わせが絶妙で《料理はセンス》ってこういうことかと舌を巻くレシピばかりだった。
本当においしい時は困り顔になってしまうのは、その味わいを全身で感じ入るからだろうか。
雑談というにはあまりに実り多いおしゃべりをリアルの醍醐味として楽しみつつ、実食の時間はいつもわたしの眉がハの字になったままだった。
「食べること=自分をつくること」ゆえ、わたしの場合は食べたい気持ちや食事への意欲が、そのまま自分自身への気持ちや意識に通じているように感じる。
食べたいものがわからないことは滅多にないけれど、自分が一本の筒のようなものだとして、その筒にストレスや疲れやなんやかんや余計なものが詰まり、滞って濁っていると稀にわかりづらくなることがある。
そういう時は何が食べたいかと考えて浮かぶ答えも「中華ではないけど、ガッツリ系」など曖昧でまどろっこしい。筒の通りが悪くて、希望がストレートに上がって来ない。
「ああ末期だな」と悟ってヘドロのような滞りを取り除こうと思う時だ。
逆に自分自身がクリアであるほど、食べたいものが瞬時に具体的に浮かんでくる。
先日もあのお店のグラタンが食べたい!となり、夫に「明日は◯◯駅まで行ってランチでグラタン食べて来ようと思う」と伝えた。
「え?親子でランチして来るってこと?」
「ううん、カウンターのみのお店だから、わたし単独で」
「なんだそれ(笑)いいよ行ってきて。こっちは買うか食べに行くかするから大丈夫だよ」
という会話を経て、40分ほど電車に揺られて行った。
おいしく食べることに全集中だった先生はその分ご自身に意識を向け、密に丁寧に接していらっしやったのだなと改めて思う。
先生の移住を機にお教室は休止となったが、教わった愛あふれるレシピによって今もわたしや家族を支えてくださっている。
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