銀葉

静かな思索を好みます

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知識とは何か:ひとつの独創?

学生の頃、プラトン『テアイテトス』を読んだことがあります。その冒頭では、戦場で傷を負い瀕死のテアイテトスについて言及されます。プラトンはこの対話篇で、「何かを知っている」とは何か、をいろいろと考えますが、アポリア(行き詰まり)のまま作品を終えます。瀕死のテアイテトスは、知識を定義できずに、その試みに失敗した、プラトン本人のことなのかな、と思ったのを憶えています。 瀕死になるのは怖いのですが、ひとつプラトンの志を(勝手に)継いで、考えてみたいと思います!定義は4ステップだけで

    • 存在とは「可能性」:その論拠

      これまで、存在とは、何らかの可能性上に特定されるところの、何らかの可能性である、と考え、それを踏まえて、可能性の3つの種類を考えてきました。つまり、現実にもとづいた可能性上に特定される理論的な可能性と、主体にもとづいた可能性上に特定される感性的な可能性と、現実と主体のいずれをも排除した(つまり数と論理にもとづいた)可能性上に特定される排他的な可能性の3つです。 では、これら3つの可能性に、分類されない可能性はあるのでしょうか。想像上の動物、例えばキマイラは、現実における動物

      • 可能性を分類してみよう!:ひとつの提案

        昨日の投稿で、可能性の種類として2つを挙げました。現実にもとづいて特定されるところの「理論的」可能性と、主体の視点・感じ方にもとづいて特定されるところの「感性的」可能性です。理論的な可能性には、「花びら」「雨」「クロワッサン」などがあります。「花びら」は現実の様々な植物を比較することで特定され、同じように「雨」も気象の比較から特定され、「クロワッサン」は現実においてどのようにパンを作るかによって特定されるからです。他方で感性的な可能性としては「きれい」「かなしい」「おいしい」

        • 「花びらはうすい」は何を意味するの?:ひとつの哲学的アプローチ

          「花びらはうすい」という文は、どのように成り立つのでしょうか。主語「花びら」は、「花びら」という可能性を特定するものです。可能性として特定された「花びら」について、「うすい」と述語付けがなされます。それは、可能性として特定されたものの可能性を、さらに特定するものです。 以前の投稿で、存在とは、何らかの可能性上に、特定されるところの、何らかの可能性である、としました。その点からみると、「うすい」という可能性は、「花びら」という可能性上に特定されるかぎりで、存在します(そのため

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        知識とは何か:ひとつの独創?

          自己紹介をかんたんに

          ちょこっと自己紹介です! もともと思いっきり文学の研究を志していましたが、病気でバタンと頓挫しました。現在療養中です! 今の気分はこんな感じです。 豆腐が空を飛んでいく ものにぶつかっても かたちをととのえ ものにぶつかっても かたちを ととのえ それでも豆腐は そらを 飛んでいく 最近のお豆腐はまろやかなのが人気だそうですが、個人的にはあっさりとした素朴な木綿豆腐が好きです! それはそれとして、「文学やってたのに、投稿は哲学なんですけど」というツッコミがありそうなので、

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          真偽の定義:なるべくシンプルに

          「何か思ったことが、本当だった」というのは、どういう意味なのでしょうか。それは多分、その思ったこと(可能性上に特定したこと)が、現実において確認できた、ということかもしれません。つまり、可能性上に特定したことの、現実における確認(特定として成り立っているかの確認)が、その特定の、真偽を決める、という考えです。現実において確認できれば、その可能性上の特定は正しかった、といえるからです。 でも、物事の真偽には、現実という事実以前のものがあります。分かりやすいのは、可能性の特定が

          真偽の定義:なるべくシンプルに

          知識の条件とは?:ひとつの論点

          知識は、どのような条件のもとで成立するのでしょうか。これまでの投稿をもとに、少し考えてみたいと思います。先の投稿では、知識を次のように扱いました。 知識とは、現実を、可能性上に、特定するものである。 すでにみたように、ここでの可能性は、必ずしも現実にもとづく必要はなく、例えば数学は、現実にもとづく必要のない可能性上に、現実を特定することで、数学的知識を構成しています。 この定義において、「可能性上における特定」は、知識の必要条件にあたります。知識であれば、その知識は、可

          知識の条件とは?:ひとつの論点

          数はどんな存在?:ひとつの定義

          数というのは不思議なものです。古代以来その存在について長い長い議論がつづいています。ささやかな論点ですが、ひとつ数という存在を定義してみたいと思います。先の投稿で、次のように考えました。 存在とは、何らかの可能性上に、特定できるところの、何らかの可能性である。 存在を一般的にこのように考えれば、数というものも、一つの存在として確認できます。数における何らかの可能性は、同じく数における何らかの可能性上に、特定されるからです。でも、数という存在は、他の存在とは違ったようにみえ

          数はどんな存在?:ひとつの定義

          知識を得る3つの方法:ひとつの哲学的分類

          先の投稿で、「知識とは?」というテーマを扱いました。その結論は、知識とは、現実を、可能性上に、特定するもの、という内容でした。この定義にもとづいて、知識を獲得するための方法を、3つに分類したいと思います。それは、次のようなものです。 ⅰ.現実をよく観察して、考えられる可能性をはじき出す。 ⅱ.可能性をよくデザインして、現実をよく特定できるように、可能性の精度を上げる。 ⅲ.現実の観察と、可能性のデザインを、互いに調整しながら詰めていく。 ⅰは「観察説」、ⅱは「デザイン説」

          知識を得る3つの方法:ひとつの哲学的分類

          「曲がった直線」って存在する?

          「曲がった直線」というのは存在するのでしょうか。一つの方向からみて「直線」で、別の方向からみたら「曲がっている」線というのは、簡単に想像できます。でも、2次元空間において、「曲がった直線」というのは存在しません。2次元、つまり平面しかないところに直線を引くと、その直線が、直線であるのと同時に曲がっている、というのはありえないからです。 すると、最初、3次元空間を考えていたときには、「曲がった直線」というのは、ある意味では(つまり「直線」と言うときの観点と「曲がっている」と言

          「曲がった直線」って存在する?

          ヘラクレイトスの川:同じ存在とは?

          昨日「テーセウスの船」のパラドックスを扱いました。朽ちた部品を全部正確に再現して新しくなった「テーセウスの船」は、「同じ」船なのか、というパラドックスです。その結論は、可能性上に特定するものとして同じであれば、その船は「同じ」と言いうる余地がある、というものでした。というのも、何かを知っているとは、その何かを可能性上に特定することであるため、可能性上の特定をゆるく考えれば(つまり船の構造と設備だけを特定するのであれば)、その船は「テーセウスの船」として知っているところの「同じ

          ヘラクレイトスの川:同じ存在とは?

          リタッチした絵は同じ絵だから:「テーセウスの船」と同一性の根拠

          「テーセウスの船」というパラドックスがあります。ある時点において、英雄テーセウスが乗っていた船がありましたが、英雄亡き後、長い時間が経って部品が劣化したため、同じ形と数量の部品で、新しく交換していきました。後代の人は、すっかり新しくなっていたその船を、変わらずに「テーセウスの船」と呼び続けました。でも、その船は、「テーセウスの船」という「同じ」船なのでしょうか。 似たような、でももう少し分かりやすい例として、絵画のリタッチ(保存修復)の例があると思います。油絵であっても、長

          リタッチした絵は同じ絵だから:「テーセウスの船」と同一性の根拠

          イデアとは永遠の実在:その意味

          イデア論というのは有名です。古代ギリシャのプラトンが考えた理論です。大づかみですが、それは次のような内容です。 Ⅰ.感覚が捉えるものは、同一を保つことがない。 Ⅱ.感覚を伴わない思考が捉えるものは、常に同一を保つ。 Ⅲ.だが、実在とは、同一を保つもののことである。 Ⅳ.ゆえに、感覚的性格を伴うものは、実在ではなく、実在とは、純粋な思考によってのみ、把握される。 言い換えてみましょう。今度は、「xはFである」という命題の場合です。 ⅰ.「xはFである」という命題にお

          イデアとは永遠の実在:その意味

          ラッセルのパラドックスが意味すること

          ラッセルのパラドックスというものがあります。それは、「自分自身を含む集合」を考えると、矛盾に陥る、というものです。例えば、「画面」をその諸要素(その画面上に映るもの)の集合として見立てると、 1.この「画面」にはすべてのものが映る、とすると、 2.その「画面」と、その画面に映るものは、異なる、はずですが、 3.その「画面」には、すべてのもの(Aとします)が映る、と定義されているので、 4.その「画面」もAに入らないと、1は満たされない、すると、 5.その「画面」も、

          ラッセルのパラドックスが意味すること

          言葉とは可能性をデザインするもの:ひとつの思いつき

          「この石は白い」という言葉は、何を意味しているのでしょうか。そこには「石」があって、その「石」という物は「白い」という性質を持っている、と考えるのがふつうです。でも、そこに2つの石があって、その白さに若干のグラデーションがあるときに、「この石は白い」という言葉は、どちらの「石」を意味しているのでしょうか。「この石は白いね」「どっちの石?」「あ、こっちだよ」というやり取りがあれば、その会話をしている同士では、その石を特定できます。でも、その場に居合わせない人が、この文章を読んで

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          世界とは何か:マルクス・ガブリエルへの反論

          世界の見方として、世界とは、存在の全体である、というように考える人は多い。すなわち、実在する存在者の、全体において存在するのが、世界である、という考えである。私たちを含めた個は、その全体の部分であり、あらゆる個を内包するところに、全体という世界がある、という見方である。 この見方に対して、マルクス・ガブリエル(注:マルクス・ガブリエル著、清水一浩訳『なぜ世界は存在しないのか』講談社、2018年)は、世界の存在を否定している。すなわち、存在は、何らかの意味の場において、その意

          世界とは何か:マルクス・ガブリエルへの反論