言葉とは可能性をデザインするもの:ひとつの思いつき
「この石は白い」という言葉は、何を意味しているのでしょうか。そこには「石」があって、その「石」という物は「白い」という性質を持っている、と考えるのがふつうです。でも、そこに2つの石があって、その白さに若干のグラデーションがあるときに、「この石は白い」という言葉は、どちらの「石」を意味しているのでしょうか。「この石は白いね」「どっちの石?」「あ、こっちだよ」というやり取りがあれば、その会話をしている同士では、その石を特定できます。でも、その場に居合わせない人が、この文章を読んでも、「あ、こっちだよ」の指している石が、2つのうちのどちらなのか、判断することはできません。
すると、次のようになります。「この石は白い」というのは、現実について気にとまった可能性を表現しており、その可能性が、現実の何を指すのかは、言葉という可能性と、現実をすり合わせて確認しなければ、決定できない。
ですが、言葉というのは便利なもので、先ほどの2つの白い石に、少し色味のグラデーションがある、としましたが、「この石は明るくてきれいな白だね」と言えば、実際にそれら2つの石を見ている同士では、「どっち」とはっきり言わなくても、指している石を特定できる場合があります。片方の石は、色味が粗いかもしれないからです。
すると、言葉というのは、現実を特定するためにデザインされた、可能性の機構である、と言えるのではないかな、と思いました。というのも、言葉には、あらゆる可能性を再現する力があり、可能性をとらえて、形式を与え、現実の何を言いたいのか、話者のあいだでのやり取りがスムーズになるように、可能性を整備できるからです。言葉の力というのは、いかに可能性をデザインできるか、いかに現実をスマートにとらえる手段を提供できるか、という点に、あるのかも。