世界とは何か:マルクス・ガブリエルへの反論
世界の見方として、世界とは、存在の全体である、というように考える人は多い。すなわち、実在する存在者の、全体において存在するのが、世界である、という考えである。私たちを含めた個は、その全体の部分であり、あらゆる個を内包するところに、全体という世界がある、という見方である。
この見方に対して、マルクス・ガブリエル(注:マルクス・ガブリエル著、清水一浩訳『なぜ世界は存在しないのか』講談社、2018年)は、世界の存在を否定している。すなわち、存在は、何らかの意味の場において、その意味の場に現れるかぎりで、存在する。だが、世界とは、存在の全体であるため、一つの存在として、何らかの意味の場に、現れることがない。すなわち、意味の場に現れるものは、常に具体的な何らかの存在であるが、世界は、それらの存在を部分とする全体としてのみ、考えうる。意味の場に現れるものが、常に世界の部分である以上、世界は、いかなる意味の場にも現れ得ず、したがって世界とは、存在ではない(注:以上の要約は、ガブリエルの主張の要点を抜き出したものである。彼は、世界というのは、あらゆる意味の場が現れるところの意味の場である、という表現をしており、そのような意味の場(世界)が、何らかの意味の場に現れることはない、と論じている。それは、全体としての世界が、意味の場に現れることがない(従って存在しない)と言うのに等しい)。
この主張に対しては、次のように反論できる。世界とは、あらゆる存在が、それにおいて現れるところの、意味の場である(注:すなわち、ガブリエルの言う、「意味の場」というそのものが、世界にあたる、という理解である)。というのも、あらゆる存在が現れるところの、意味の場と理解されるものは、すべて世界をなす。例えば、地球は、人のあらゆる活動がおこなわれる場所であるため、地球は、人間活動という存在一般が現れる意味の場として機能し、従って世界である、と認識される。また、宇宙は、科学の記述する存在一般が現れるところであるため、そのような性質のあらゆる存在が現れる意味の場をなし、世界と述定される。同じように、スマートフォンをタブレットに変更した人が、「世界が変わった」と言うのも、その電子端末が、その人にとってのあらゆる存在が現れる意味の場をなしているために、その意味の場と、その意味の場での存在の現れ方が変化した、と判断して、そう発話している。それと同様に、ある小説は、その小説に関わるあらゆる存在の現れる意味の場をなすため、世界を持っていると形容され、ある絵画は、人によっては、その人の思い描くあらゆるものを現すと感じられるために、ひとつの世界をなしている、と表現される。
そのように、「世界」という言葉は、多様に用いられるが、その本質は、何らかのかたちでの「すべての」存在が、それにおいて現れるところの、意味の場である、という点にあり、そして、およそあらゆる存在が、すべてあまねく現れる意味の場とは、この「現在」のことであろう。存在は、複数の「世界」のうちに生きることができ、世界とはそのように多元的・重層的に成り立っている。しかし、存在のすべてが、恒常的かつ普遍的に現れるのは、時における現在という意味の場であり、その「今」という意味の場は、根源的な、本義における「実在」の「世界」をなす。あらゆるものは、その意味での「世界」に現れることで「実在」し、世界という意味の場に現れたことで、過去という永遠において存在し続ける。
ガブリエルは、世界が、何らかの意味の場に現れることがない、という点をもとに、世界は存在しない、と主張した。だが世界とは、あらゆる存在がそれにおいて現れるところの、意味の場のことであり、あらゆる存在の原因として、実在するものである。意味の場がなければ、意味の場に現れるかぎりで存在するひとつひとつの存在は、存在し得ないからである。その意味で、世界とは、存在の現れる原因を提供しており、存在の原因であるかぎりで、実在している。従って、世界は存在しない、という主張は誤っており、世界は、存在の源泉として、今ここに実在する。