知識とは何か:ひとつの独創?
学生の頃、プラトン『テアイテトス』を読んだことがあります。その冒頭では、戦場で傷を負い瀕死のテアイテトスについて言及されます。プラトンはこの対話篇で、「何かを知っている」とは何か、をいろいろと考えますが、アポリア(行き詰まり)のまま作品を終えます。瀕死のテアイテトスは、知識を定義できずに、その試みに失敗した、プラトン本人のことなのかな、と思ったのを憶えています。
瀕死になるのは怖いのですが、ひとつプラトンの志を(勝手に)継いで、考えてみたいと思います!定義は4ステップだけです!さあ、がんばっていこう!
ステップA:「私はモンブランが何かを知っている」と言う人は、現実において、何がモンブランなのかを、指示して特定することができます。つまり、知識とは、現実の特定ができるものです。
ステップB:「私はモンブランが何かを知っている」と言う人は、モンブランの作り方(糸状のクリームを山状にぐるぐる巻きにする)、材料(栗を主に使う)、味(甘くてまろやか)を言葉のうえで把握しています。つまり、何かの知識とは、その何かについての、可能性を把握しています。
ステップC:ステップAの、現実の特定は、ステップBの、可能性の把握に、もとづいています。可能性を把握していなければ、現実の特定はできないからです。
ステップD:すると、知識とは、現実を、可能性上に、特定するもの、となります。現実を可能性上に特定すれば、現実の何がモンブランなのか、指示もできますし、説明もできるからです。
以上の理解を、ちょっと確かめてみたいと思います。分かりやすいので、固有名詞の場合をみてみます。「知子(ともこ)さんとは誰か」を知るためには、知子さんを、何らかの可能性上に、特定する必要があります。例えば、「知子さんがさ」「誰?」「あ、お隣さんの子ども」「あ、うんうん」というやり取りで、「誰?」と尋ねた人が、知子さんと面識がない、とします。それで、そう尋ねた人が次の日に、別の人とのあいだで、「ねえ、知子さんって知ってる?」「うんうん、知ってるー」「誰?」「恵(めぐみ)さんのお隣さんの子どもだよ」という会話は、十分自然に成立します(最初の会話は恵さんとの会話だったとします)。「うんうん、知ってるー」と答えた人のなかで、「知子さんとは誰か」の知識が成立しているのは、知子さんとは、恵さんのお隣さんの子ども、というように、可能性上の特定がなされている、と思っているからです。可能性上に特定できている、と思っているかぎり、その人のなかでは、「知子さん」についての「知識」が成り立っています。この論点、もっともっと確かめていきたいと思います。お楽しみに!