存在とは「可能性」:その論拠
これまで、存在とは、何らかの可能性上に特定されるところの、何らかの可能性である、と考え、それを踏まえて、可能性の3つの種類を考えてきました。つまり、現実にもとづいた可能性上に特定される理論的な可能性と、主体にもとづいた可能性上に特定される感性的な可能性と、現実と主体のいずれをも排除した(つまり数と論理にもとづいた)可能性上に特定される排他的な可能性の3つです。
では、これら3つの可能性に、分類されない可能性はあるのでしょうか。想像上の動物、例えばキマイラは、現実における動物を組み合わせた結果作り出された可能性なため、遠回しではあるものの、現実にもとづいた可能性上に特定される可能性です。また、よく問題にされる「穴」という存在も、一つの可能性として、現実にもとづいて特定される(つまり現実におけるここには何も無い、というように可能性を特定される)存在です。
キマイラや「穴」が存在論上問題になるのは、現実というのはこういう存在だ、と前提するときに、想像上の動物や穴といった欠如が、その現実の定義から漏れてしまうためです。分かりやすいのは、現実の存在とは「個」というものだ、と前提すると、穴という「個」がそこに存在する、となってしまい、定義上おかしく思えてしまう、という例です。「個」というのが存在であり、穴も「個」であるならば、ドーナツの「穴」だけ取り出してみろ、という論法に引っかかってしまいます。
でも、現実というものは、そう簡単に定義できるものではありません。個として成り立つものが現実を構成する、つまり、現実とは個に還元される、という考えを突き詰めていき、日常の個は元素から成っている、元素は陽子と中性子と電子から成っている、陽子と中性子はクォークから成っている、と素粒子まで還元していった結果、量子力学という、日常感覚では捉えにくい現実が明らかになっています。素粒子は、粒子という個でありながら、波動性も兼ねており、確率的にしか捉えられず、いくつもの状態が重ね合わさりながらランダムに揺らいでいる、謎めいた存在です。そのレベルまでいくと、日常素朴な「個」という概念では捉え難い、現実という謎が浮かび上がります。
そのため、そもそもキマイラや「穴」という言葉が定義しづらい、という難点を抱えていた点も踏まえると、現実とはこういう存在である、と単純な思考上に固定するのは得策ではありません。これまで存在を、単に何らかの可能性上に特定される、何らかの可能性としか考えなかったのは、そういう理由があります。現実というのはその正体が謎であり、現実において特定するのは、一般に可能性でしかないと割り切る、という考えです。
その考え方は、脳科学的にも支持できると思います。ふだん現実と思っている世界は、現実のなかで生きやすいように、不要な部分を脳が捨象して再構成した、ひとつの仮想的空間である、というのは、脳科学の示しつつある論点です。その点からみても、「存在」と一般的に言われるものは、脳が現実について捉えて再構成した「可能性」であって、現実についての可能性であるかぎりで成り立っている、と考えるのが自然です。
そして、そのように「存在」を「可能性における特定」というレベルにまで平準化することは、「穴」やキマイラといったものを、人の言語が他から区別していない、という事実を説明するときに、メリットがあります。「人」や「ねこ」が、単に現実にもとづいた可能性上に特定されるかぎりで「存在」するならば、「穴」も、現実にもとづいた可能性上に特定される可能性として、等しい地位を持ちうるからです。