「花びらはうすい」は何を意味するの?:ひとつの哲学的アプローチ
「花びらはうすい」という文は、どのように成り立つのでしょうか。主語「花びら」は、「花びら」という可能性を特定するものです。可能性として特定された「花びら」について、「うすい」と述語付けがなされます。それは、可能性として特定されたものの可能性を、さらに特定するものです。
以前の投稿で、存在とは、何らかの可能性上に、特定されるところの、何らかの可能性である、としました。その点からみると、「うすい」という可能性は、「花びら」という可能性上に特定されるかぎりで、存在します(そのため属性と呼べます)。すると、「花びら」の方は、どのような可能性上に特定されることで「存在」するのでしょうか。おそらく、きちんと考えれば、植物学的に、様々な花を比較・分析することで、「花びら」は可能性上に特定されます。
すると、「花びら」という可能性上の特定は、現実についての可能性を比較することで特定される、ということになります。その点、その可能性上の特定は、現実に根拠を持っています。
では「うすい」という可能性上の特定は、どこに根拠を持っているのでしょうか。現実に、と言いたくなりますが、「うすい」というのは相対的なものです。人間のスケールで見たら「うすい」ものも、アリのスケールで見たら「厚い」と言えそうです。すると、「花びら」が、現実を植物学的に比較・分析することで特定される可能性であったのに対し、「うすい」の方は、単純に現実にもとづいて特定されるものとは言い切れません。
おそらく、「うすい」という可能性は、人間の感覚・感性にもとづくものでしょう。手で触った感じや、他のものと比較したときの見た目、といった可能性上において特定されるのが「うすい」という可能性だからです。
するとそれは、「右」や「左」と同じ種類の可能性である、と言えそうです。ヘラクレイトスの有名な言葉に、同じ坂道が、見る方向によって「上り坂」でもあり「下り坂」でもある、というのがあります。この場合、「上り坂」という可能性上の特定は、「花びら」という可能性上の特定とは違い、現実に根拠を持つものではなく、主体の視点に根拠を持つものです。それは、自分からみて「右側」にあるものが、自分に正対する人からみて「左側」にある、というのと同じです。この場合の「右側」「左側」は、現実に根拠を持つ可能性ではなく、主体に根拠を持っています。
同じことが「うすい」にも言えます。現実において、主体の視点を外したところに客観的に特定される「うすい」という可能性はありえません。それは、人が、自分の感じ方において「うすい」と可能性を特定するところに成立する可能性です。そのような、主体に根拠を持つ可能性上の特定を、「感性的」と呼びたいと思います。それに対して、現実に根拠を持つ可能性上の特定は「理論的」と呼びたいと思います。「花びら」なり「人間」といった可能性は、感性的にではなく、現実を比較・分析する理論によって、はじめて特定できるからです。
すると、最初に挙げた「花びらはうすい」という文は、理論的に特定される「花びら」という可能性について、感性的に特定される「うすい」という可能性を特定している、という意味になります。そのように、一方の可能性が現実にもとづき、他方の可能性が主体にもとづくとしても、存在それ自体は、単に何らかの可能性上に特定されるところの、何らかの可能性であるため、矛盾なり齟齬はない、と思っています。つまりこの場合は、「うすい花びら」という、理論と感性を兼ねた「存在」が成り立つ、という意味です。