見出し画像

可能性を分類してみよう!:ひとつの提案

昨日の投稿で、可能性の種類として2つを挙げました。現実にもとづいて特定されるところの「理論的」可能性と、主体の視点・感じ方にもとづいて特定されるところの「感性的」可能性です。理論的な可能性には、「花びら」「雨」「クロワッサン」などがあります。「花びら」は現実の様々な植物を比較することで特定され、同じように「雨」も気象の比較から特定され、「クロワッサン」は現実においてどのようにパンを作るかによって特定されるからです。他方で感性的な可能性としては「きれい」「かなしい」「おいしい」などがあります。「花びら」という現実的な可能性について、「きれい」と思うのは主体に根拠があり、それは人様々です。「雨」をみて「かなしい」と思ったり、「クロワッサン」を食べて「おいしい」と思ったりするのも、感性的な可能性上の特定です。

ですが、このように「理論的」と「感性的」の2種類の可能性があるときに、数という可能性は、どちらに入るのでしょうか。以前の投稿で、数は、現実にもとづく必要のない可能性上に特定されるところの可能性だ、と考えました。すると、現実にもとづく可能性、つまり現実を比較・分析する理論的な可能性と、数は異なる、となります。数は、現実にもとづくところに特定される可能性ではないからです。

といって、数が、人の主体にもとづく可能性である、というのもありえません。数の定式が、人の感じ方・視点に応じて変わってしまうようでは、数とは呼べません。よく言われるように、数学というのは普遍的な言葉であり、人がどう感じようとも変わらないところに、数は成り立ちます。

すると、数は、中立的・排他的な可能性である、となります。というのも、数的な特定は、現実にもとづく可能性の特定と無関係です。そこに並んでいるものを見て、「3+3で6個ある」というときの「6個」という特定は、その6個のものが「花びら」であったり「クロワッサン」であったりすることに無関心です。逆にいえば、数という可能性上に、現実が入り込んでしまっては、数は成り立ちません。つまり、

1+クロワッサン=2

というのは、数学的な「クロワッサン」の立ち位置が不明(おそらく定義できません)なため、数の可能性として特定できず、必然的に偽です。

それと同様に、数という可能性には、先にみたように、感性的なものも入り込む余地がありません。数は、人の感じ方・視点とは無関係だからです。そのように、数という可能性は、現実にもとづく可能性(それは理論的です!)も、主体にもとづく可能性(感性的です!)も、排除するところに成り立つ可能性であり、その点、理論と感性のいずれの要素も取り入れない、中立的・排他的な可能性をなします。

ただ、数(そしておそらく論理も)という可能性上に特定されるものは、それ自体で(つまり排他的に)成り立つことから、現実なり主体についての可能性を特定する際に、ツールとして使用することができます。というのも、排他的である(それゆれ現実からも主体からも独立である)がために、数的な可能性は、現実や主体を、そのいずれにもコミットせずに、純粋かつ客観的に可能性上に特定するのに役立ちます。というのも、現実にもとづいて主体を特定しようとすると、心を物に還元する還元主義的になって、現実偏重になりますし、人の心情にばかり重きをおいても、現実のいかなる可能性も特定できません。でも、数という可能性を挟めば、例えば主体をマネー(という数)によって評価しても、目立って還元主義的にはなりませんし、世界という現実も、物理学的に解明できます。それは、数という可能性が、現実にも依存せず、といって主体にも依存せずに、そのいずれの可能性も排除した、排他性において特定される可能性なためです。

いいなと思ったら応援しよう!