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数はどんな存在?:ひとつの定義

数というのは不思議なものです。古代以来その存在について長い長い議論がつづいています。ささやかな論点ですが、ひとつ数という存在を定義してみたいと思います。先の投稿で、次のように考えました。

  • 存在とは、何らかの可能性上に、特定できるところの、何らかの可能性である。

存在を一般的にこのように考えれば、数というものも、一つの存在として確認できます。数における何らかの可能性は、同じく数における何らかの可能性上に、特定されるからです。でも、数という存在は、他の存在とは違ったようにみえます。例えば「机」という可能性と、「円」という可能性は、質が違うものです。その「存在の質」の違いは、どこに由来するのでしょうか。

分かりやすいので、「机」と「円」で比べてみたいと思います。「机」という可能性の意味は、「ものを広げて作業できるもの」と考えることができます。他方で「円」という可能性の意味は、「平面上で、ある定点から等距離にある点の集まり」と学校で習います。すると、「机」という可能性を考えるためには、「何かを広げて作業する」という現実における行動を、考えなければなりません。その一方で、「円」という可能性は、「平面」「定点」「等距離」「点」「集まり」のいずれも、現実における何らかの行為を考える必要のない、単なる可能性上のものです。

すると、次のようになります。数とは、現実にもとづく必要のない可能性上に、特定される可能性である。

というのも、数以外の可能性、例えば「机」は、現実にもとづくことでのみ考えうる可能性です。同じように、「人」「空気」「温かい」「やさしい」のいずれも、現実にもとづくことで考えうる可能性です。でも、数は、そのように現実にもとづくことなく、単に可能性上に特定されることで成り立つ可能性です。その好例として、数学上のトポロジー(位相幾何学と言うそうです)があります。この幾何学では、穴が1つ空いているものを、等しいものとして扱います。そのため、取っ手のついたコップと、ドーナツは、等しいものとして計算されます。その幾何学の本質は、「取っ手のついたコップ」と「ドーナツ」を等しく扱う、という点にではなく、「穴が1つ」であるものを、いかに計算するか、という点にあります。つまり、現実のコップやドーナツにもとづくところに、トポロジーは成り立つのではなく、ただ「穴」という可能性を、「立体」という可能性上に特定することで成立します。それは、「コップ」や「ドーナツ」という可能性が、現実にもとづくものであるのに対し、そのように現実にもとづく必要のない、単なる可能性上に特定されるものです。

その点から、先ほどの数の定義も確認できます。トポロジーという数学は、「コップ」や「ドーナツ」といった可能性が指しているところの、現実にもとづく必要はありません。むしろ、「穴」と「立体」の関係はどのように定式化・計算できるか、というところに成立します。それは、現実にもとづく必要のない、(ほぼ)純粋な可能性上において可能性を特定する、というものです。そのように考えれば、数という存在を、他の存在から区別できるかも、と思っています。

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