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「自分を責める/批判する」こととマスター(師)の精神―プロセスワーク

 別の記事「なぜ『ジャッジしない』は難しいのか?(その1/その2)」では、幅広い使われ方をする「ジャッジしない」という言葉をめぐって、さまざまな事柄を解説してみました。
 特に、その中で、「自分や他人を責める」欲求(感情)が、私たちの深層意識の人格構造からくることについて解説しました。
 心理学的には、フロイトのいう「超自我 super ego」、ゲシュタルト療法でいう「トップドッグ(ボス犬)」からくるという話です。
 これは、私たちの中の内に向かう攻撃性となってしまうケースが多いのです。

 今回は、それと似たテーマで、私たちの中の、自分を責めてしまう部分、「自分責め」をしてしまう部分、「自分や他人を批判する」部分、批判的 (クリティック)な部分についてとりあげたいと思います。
 これも、ゲシュタルト療法的には、「トップドッグ(ボス犬)」の要素に類するものです。

 また、別の記事「アーノルド・ミンデルと夢見(ドリーミング)の次元」では、思い出深いミンデル博士(プロセスワーク創始者)の訃報に触発されて、「ドリーミング(夢/夢見)の次元」についていろいろと書いてみました。
 今回は、同じくプロセスワークのナンバー2、マックス・シュパック博士の言葉を参考に、私たちの心の働きの多元的な働き、ドリーミングの次元について、解説してみたいと思います。

 さて、その昔、日本によく来ていたシュパック博士は、最近の動画などを見るとすっかり痩せこけてしまっており、往時の面影をなくしていますが、その当時は、どことなくワイルドな雰囲気もあり、ミンデル博士とは違った意味で、トリックスター的なけはいをもった、とても魅惑的な人物でした。刑務所で囚人とワークをやって、骨折したなどという噂もあり、そんなエピソードにも違和感を感じさせない人物でした。
 そんな彼が、二十年以上前のワークショップで語った、ある言葉は、今も、私のうちに残っており、折に触れて思い出されることであります。

 そのワークショップでは、参加者とデモンストレーションのワークをした後に、そのワークの中で出てきた、参加者の「クリティック(批判的)」というテーマについて触れていったのです。
 参加者は、自分の「クリティック(批判的)」な傾向に苦しんでいることが、ワークの中で、テーマとなって現れてきていたからです。
 「自分を批判して責めてしまう」とか「他人を批判して責めてしまう」などの問題です。
 「鋭く」刺すような苦痛についてです。

 そして、シュパック博士は、セラピーでは往々にしてテーマとなる、この「クリティック(批判的)」の問題について、一通りの解説した後に、これには、別の側面もあると付け加えたのです。

 彼は、日本文化の中には、ある「鋭さ」があると言ったのです。
 その「鋭さ」は、クリティック(批判的)の鋭さだと。
 そして、彼は、そのクリティック(批判的)の背後に、「マスタリーの精神」を感じると言ったのです。
 そのため、一概に悪いものではないのだと。

 マスタリー mastery とは、何か技芸を究める、熟達するというような意味合いです。
 「マスター(師匠)」になることに向かうような精神です。マエストロ(巨匠)になるような姿勢です。
 たしかに、日本には、茶道、弓道とか、〇〇道で表されるような「道を究めて」「マスターになる」精神や姿勢というものが多くあります。
 それは、日本文化にある、技芸での完成度の高さや、「鋭く」研ぎ澄まされた感覚と関係していることがわかるものです。

 自分に厳しい「批判的(クリティック)」な姿勢が、完璧主義になりすぎ、消耗をもたらすケースはよくあります。
 それが、どこまでやっても、「自分は足りない」という感じを引き起こし、自分を「鋭く」批判し、刺すように苦しめてしまうことも多いのです。
 しかし一方、その姿勢が、物事の完成度や道を究める欲求(感情)とも、どこかでつながっているのです。
 禅や〇〇道のように、刺すような批判精神の鋭さをもって、精神の極点を目指す運動ともなっているのです。
 日本文化のある面には、たしかに、そのようなマスタリーの精神があるのです。

 そのため、批判的(クリティック)な、刺すような鋭さの向こうに、「マスター/マスタリーの精神」を見ることができるのです。
 いわば、マスター/マスタリーの精神は、批判的(クリティック)な姿勢の背後にある「ドリーミング(夢見)」の次元と言うこともできるのです。

 皆が了解している「合意的現実」のレベルでは、単なる批判的(クリティック)なものにしか見えないけれど、深い次元においては、マスター(師)のドリーミング(夢見)があると言えるのです。

 それは、ある種の「元型的」な次元の働きと見ることもできます。
 元型的であるとは、ユングの概念ですが、この表層的な日常自我の論理に回収されない、深層の、普遍的で根源的なパターンであるということです。
 それは、私たち人間の表面的な価値基準とは、別の次元で、働いているものなのです。

 自我の表層的な部分では、「肉中の棘」のように、自分を鋭く批判し、苦しめる感情(欲求)となっている部分が、深層の普遍的な領域では、究極の完成を目指して、道を鋭く究める、元型的な衝動であるとも言えるのです。
 実際、自分を批判したり責めたりする傾向のある人は、非常に質の高い技芸や高品質のアウトプットの持ち主であることも多いのです。

 そのように批判的(クリティック)であることをとらえなおすことは、私たちの感性の中に、ドリーミング(夢見)の多次元的な豊かさをもたらします。
 要は、批判的(クリティック)の攻撃性を自分に向けるのではなく、道を究める方向に向けていくということなのです。
 このような深層次元の心理的調整は、頭で考えたり、心意気で、何とかできるものではなく、心の深い次元をあつかうセラピー(体験的心理療法)で、自分に向かう攻撃性を変容(解放)させていくしかないものです。

 しかし、それでも、批判的(クリティック)なものの根源に、マスター/マスタリーの精神(夢見/ドリーミング)があると覚えておくことは、世界やイメージを豊かにし、気持ちを前に向けるものなのです。

 批判的(クリティック)な傾向や、自分責めの鋭い苦痛に苦しんでいる人は、ぜひ、自分のそういう感情(欲求)の背後に、そのような「マスタリーの精神」「ドリーミング(夢見)」があると感じて、道と心の探求に励んでみていただければと思います。




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