近代的自我の功罪〜後悔と再生と〜
※マックス・シェーラーに捧ぐ
ーーすべて「嘘」でした。
とだけ書いた「遺書」を残して、思い切って死んでしまおう。
ーーわたしの人生は、それでおしまい。
ーーみなさん、今まで、ほんとうに、ありがとう。さようなら。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ーーそれは、無いな。
ポジティブなことだけが取り柄なわたしだから、そんなことは、きっと、やらない。
「決してやらない」のだけれども、それでも、「生きていること」自体を、なんの理由もなく、突然に、「リセット」したくなる「衝動」は、わたしのこころの奥底に、当たり前のような顔をして、若いころから、ずうっと、息をひそめたまま、棲みついている。
ときおり、どうしても、
ーーすべて嘘でした。
と、言ってしまいたくなる「習癖」は、だから、その「衝動」のせいなのかもしれない。
そんなときは、すぐ足もとの面積が、なぜだか、とてつもなく小さくなっている。
そうして、その頼りないさまが、わたしを、少しずつ、「不安」にさせてゆくのだ。
両足で立っていることさえ、おぼつかないほどに、足もとの面積が、極端に狭いように感じられて、どうやったら、自分が、このまま、「世界」に「存在」し続けて居られるのか、わからなくなってしまう。。
こころのなかでは、
ーー嘘つき。
という「言葉」が、やまびこのように、反響しはじめる。
やがて、こころそのものが、「無限の奈落」に落ちてゆく感覚が、じわじわと、わたしに向かって、迫って来る。
ーー一番たいせつなことは、「神さまにしか言わない」んだ。
ーーだから、現実に喋っている「言葉」なんか、全部、ただ、まわりに合わせただけの「嘘」だって、構わないんだ。
わたしのこころのなかに居るひとりは、なりふり構わずに、そんなことを叫び出す。
けれど、もっと別のわたしは、
ーーそんな不誠実なことではいけないよ。
と、「叫んでいる嘘つきのわたし」を、責めはじめる。
じりじりと、ひりひりとした、「名のつけようのない」感情は、どんどん膨らんで来て、わたしを追い詰め、「崖っぷち」まで連れてゆこうとする。
正体不明な感情。。
理屈ではない。
ーーすべてが嘘だ。
そう思わせるような根拠は、実は、どこにも、無い。
ただ、そのような「感情」が、こころの「どまんなか」を、どこまでも「占拠」して、わたしの「存在」そのものを脅かして来るだけなのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
だいたい、はたして、自分が、自分自身に対して、「嘘つき」なのか、「そうでもない」のか、について、考えはじめたところで、きっと、「答え」なんか出ないし、よけいに、わからなくなって来るばかりだ。
人間は「社会的な動物」とされているから、基本的には、「他人に見せている顔」で、日々を生きているのだけれど、半ば習慣的に見せている、その「社会的な顔」は、ときに、だいぶん「ほんとうの自分」とかけ離れてしまっていたりはしないだろうか。。
「他人に見せている顔」と「ほんとうの自分の顔」とは、たぶん、ほとんどのひとが、ちょっとは、違っているのではないか、と思う。
自分では気づかずとも、おそらく、少しは「乖離」しているはずだ。
その違いに対して、敏感に、「違和感」を感じるとき、どうしても、わたしは、いやな感じの「自己嫌悪」と「居心地の悪さ」を覚えてしまう。
だから、独りでいるほうが、ずっと「気が楽」だったりするのだ。
ーー「ほんとうの自分」とは、いったい、どんなものだったのだろうか。
ーーそもそもわたしは、「ほんとうの自分」だったことなんて、あったのだろうか。。
生まれ落ちた瞬間からはじまる「社会化=教育」によって、すべてのひとは、「ほんとうの自分」を意識する以前に、「社会的な自分」に形作られて行ってしまうはずなのだ。
もしかしたら、「純粋なほんとうの自分」というものは、「意識されること」もないままに、どこかに、こっそりと、葬り去られていってしまう「運命」だったりするのかも、しれない。
「作られた社会的な自分」を、「ほんとうの自分」であると「違和感なく」思えるひとが、もしも居るのだとしたら、そのひとは幸いだなと、わたしは、羨ましく思う。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
とてもとても幼いころから、いつも「ひとり」で、自分が創り出した「空想の世界」のなかで「遊んでいること」が、一番に好きだったわたしが、
「子どもには、お友だちがいないといけないんだよ。」
という、まわりの大人たちからの「善意の忠告」を、素直に受け入れて、しかたなく、「お友だちらしき存在」を作るようになったのは、おそらくは、小学校三年生くらいの頃からだったろうと、記憶している。
「お友だちと遊ぶこと」も、それなりには「面白かった」から、「誰かと一緒に行動すること」に、わたしは、しだいに、「慣れて」は、いった。
それでも、やっぱり、少し、無理があったのかもしれない。
こころが疲れたようになっては、頻繁に、寝込んだ。
そのうえ、定期的に、消化不良を起こし、何も食べられなくなるということを、何度も、繰り返していた。
おそらく、わたしは、かなり幼いころから、「まわりに合わせているわたし」と「自分で思っているわたし」とのあいだに、「いやな変な違和感」を感じていたのだろうと思う。
そんなわたしの「危うい苦しいこころ」を救ってくれていたのは、「家族」でも「お友だち」でも「遊び」でもなくて、明治時代の歌人「石川啄木のうた」だった。
小学校五年生に進級したばかりの、学校帰りのある日、バス待ちに利用していたバス停前の書店で、何気なく手に取った、文庫本の「石川啄木歌集」は、出会ったその日から、わたしのこころを、鷲づかみにした。
「石川啄木」は、どうしてか、簡単に、時代を飛び越えて、わたしの「親友」に、なってくれたのだ。
浮かれたように、毎日、「ザ・タイガース」の「シーサイド・バウンド」を歌っていた十歳のわたしは、それを「外向きの顔」にして、ひとりのときは、哀しげな「石川啄木歌集」に、どっぷりと、浸かっていった。
ーー不来方の お城の草に 寝転びて 空に吸はれし 十五の心
ーー東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
ーーいのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば 指のあひだより落つ
ーー大という字を百あまり砂に書き 死ぬことをやめて帰り来たれリ
ーー友がみな われよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ
これらのうたには、特に、こころ惹かれて、なにかというと、くちずさんでいた。
なつかしい。
わたしは、「啄木」の、「孤独のなかで自己自身を見つめる視線」と、「景色の切り取りかた」が、格別に、好きだったのだ。
「社会」に対するどうしようもない「違和感」と、同時に抱えてしまう「大きな孤独」。。
「啄木」は、自分が生きる社会に対して、簡単には溶け込むことのできない「自己」を守ろうと、こころのなかの「違和感」を「うたの世界」に吐き出して、必死に「闘っている」ようにも思えたから、そんな「啄木の純粋な心情」に対して、わたしは、真っ直ぐな「共感」を覚えたのだった。
そのころのわたしは、毎日の暮らしのなかで、「いやな変な違和感」を感じたときには、必ず、「啄木の歌集」を開いて、自分のこころに寄り添ってくれそうな「うた」を探すことにしていた。
だから、学習机の上には、小さな文庫本の「石川啄木歌集」が、いつでも手に取れるように、置いてあった。
そうして、夜、寝るときも、その「歌集」は、「ペットの仔猫」のように、ちゃっかりと、わたしの枕もとに「鎮座」していた。
外面的には、明るく振る舞いながらも、まわりの子どもたちと、しっくりとは交じわりきれない「孤立したこころ」を持て余していたわたしを、「石川啄木」の「うたたち」は、いつだって、そっと包みこんでくれたし、優しく、癒やしてくれたからだ。
それでも、「いやな変な違和感」は、成長するごとに、どんどんと、わたしのこころのなかに、降り積もっていった。
やがて、わたしは、「まわりに合わせて振る舞うこと」だけが、「特化して上手なひと」に成長していったのだ。
ーーわたしは嘘つき。
「ひとと居るときの自分」に対して、わたしは、たいてい、そう感じていた。
臆病だから、まわりから、はみ出さないように、こころにもないことを、「笑顔」で話して、「合わせているわたし」は、社会のなかに「存在していること」自体が、すでに、こころ苦しかったのだ。
何が、「自分の本音」なのかを、掴もうとする試みさえ、だんだんと、もう、どうでもよいことになってしまっていた。
瞬間瞬間ごとに、移り変わっているように感じられる社会のなかで、「二重底」のこころは、絶えず、不愉快な「矛盾」を、わたしに突きつけて来て、「わたしというもの」を、巧妙に、「寄る辺のない存在」に、仕上げて行った。
まわりとの「ズレ」を感じ続けるわたしは、いつの日か、自分が、その「スキマ」に、落ちて行ってしまうのではないかという、漠然とした不安におびえながら、日々を過ごしていたのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ーー我思う ゆえに 我在り。
有名なこの言葉は、デカルトの「コギト」と呼ばれている。
ラテン語で、
「‘Cogito ergo sum‘」
と表記され、日本語的には、「コギト・エルゴ・スム」と発音される。
この世のすべての「存在」を、「はたして存在しているのか」と、ひとつひとつ疑ってみるとする。
そうして、最後に、「はたして、わたしは、存在しているのだろうか」と、疑ったときに、その、「疑いを持ったわたし」自身だけは、確実に、この世に、「存在している」ことに気づく。
だから、「考えているわたし」だけは、「確実」に、「この世に存在していることが証明される」という哲学の「命題」である。
これは、「人間の内面の意識」というものを、はじめて「外界」から切り離して「存在するもの」として、「確立させた命題」とされている。
中世には無かったこの考えかたを、デカルトが発見したときから、「近代」は、その幕を開けた。
だから、この考えかたは、「中世との決別」を意味していて、いわゆる「近代的自我」の出発点になっているものとされているのだ。
中世のヨーロッパでは、ほとんどのひとが、なんらかの「共同体」に属し、そのなかに「埋没」して暮らしていた。
国王やカトリック教会をはじめとする裕福な支配層が、絶対的な封建制を築いていて、人びとを支配していたので、たとえ、城壁に囲まれた都市の「市民」であっても、いわゆる「近代的な意味での自由」は、持っていなかったし、農村共同体は、さらに、その都市の支配下にあったのだから、農村に住む人びとに、「自由なるもの」は、存在するはずもなかったのだ。
そのような環境下では、「共同体の目的」と「その共同体に住む人びとの人生の目的」は、完全に、一体化していた。
だから、人びとは、疑って考えることもなく、「共同体の価値観」を「自らの価値観」として擦り込まれて、生きていたのだった。
全ての「価値」は、「共同体」が判断し、「共同体」が請け負っていたから、「共同体」のなかに「埋没」し、「共同体」と、喜怒哀楽を共にして生きていた人びとは、「自我をもつ個人ではなかった」ということになる。
そもそもが、強固なカトリック教会に支配されて、「神の意思のもとに暮らしていた」人びとは、「悩み」も「孤独」も、もし仮に感じていたとしても、全ては「懺悔すること」で、「神」に委ねることが可能だったから、自分自身だけで、それらを、請け負う必要はなかったのだ。
つまり、「個人ではなかった」中世ヨーロッパの人びとには、「個人としての責任」も存在しなかった、とも言える。
その後、ヨーロッパでは、ギリシャ時代からの、伝統ある「哲学」に支えられて、国ごとに、さまざまな解釈が、なされながらも、それぞれに、歴史を重ね、絶対制の崩壊や、市民革命や、産業革命などを経て、少しずつ、「精神の近代化」が進み、「近代的自我」は、ゆっくりと確立され、人びとのあいだに、浸透していったのだ。
それに比べて、日本は、どうだったろうか。。
日本では、「近代的自我」と呼ばれるものは、明治時代を迎えると同時に、西洋社会で培われた何百年もの精神史を、一足飛びに、飛び越えて、青天の霹靂のごとく、ごく一部の、先見的な人びとの前に、忽然と、現われたのだ。
江戸時代の末期に、オランダに留学して、哲学を学んだ、西周とその周辺の人びとや、明治十年に創設された東京大学の哲学科で、アメリカから招聘されて教鞭を取ったフェノロサから学んだ、ごく少数の人びとによって、確かに、形だけ、「西洋哲学」は、「学問として」日本に輸入はされたけれども、それは、ほとんどの人びとにとっては、「預かり知らぬこと」であった。
明治維新を迎えるまでの日本は、西洋的な精神史から見れば、「未だ中世だった」と言っても過言ではない。
鎖国状態もさることながら、二百六十年も続いた江戸時代の人びとは、「幕府」の絶対的支配の下で、それぞれに、住んでいる共同体の掟のなかに「埋没」し、「個人という意識」などは、持ち合わせていなかったはずだから、である。
「個人」の意識を持たない、おおかたの人びとは、それぞれに、属する地域の共同体の「慣習」に、疑いを持つこともなく、そのなかで、「喜怒哀楽」を共にすることを「喜び」として、人生を送っていたと思われる。
それは、ヨーロッパ中世の「農村共同体の農民たち」の生活実感と、ほとんど変らなかったのではないか、とわたしは思う。
そんななか、いちどきに押し寄せて来た「西洋の文学」に飛びついた、明治期の「文学青年」たちは、どれだけ、戸惑ったことだろう。。
日本には、そもそも、一部の宗教的な人びとを除けば、西洋のような、絶対的な「神」も、存在してはいない。
どちらかと言えば、「自然崇拝」が、主たる信心の元になっているからだ。
「西洋の文学」に触れたことから、いきなり「個人というもの」を知り、意識的に「共同体」と決別した「文学青年たち」は、そこで、はじめて、
ーー「自己の存在感覚」に責任を持つものは、「自分しか居ない」。。
という「自我の感覚」を、知ることになるのだ。
もともと、「神」という絶対的な存在もなく、後ろ盾となっていた「共同体」からも開放された明治期の「文学青年たち」には、「研ぎ澄まされた自我の感覚」と「選択の自由」だけが、意気揚々と、与えられたのだった。
「自分」を支え、「自分」の方向を定めるものは、「自分」でしかないのだという「新たな感覚」は、
ーー自分たちは、実は、ひとりひとり、それぞれに、「世界」に、投げ出されている「寄る辺のない存在」なのだ。。
という「自覚」を促してゆく。
その「高揚感」を、生き生きと表現することに成功した小説は、国木田独歩の「牛肉と馬鈴薯」なのではないかな、とわたしは思っている。
ただし、その「新しい感覚」と、まだまだ封建的な慣習が残る「当時の社会」とのあいだには、厳然とした「溝」が存在していた。
明治期の「文学青年たち」は、その「溝」がもたらす「ズレ」に対して、一様に、苦しんだのだ。
その「溝」に注目し、その「ズレ」について、わかりやすく、新聞小説に発表して、表現してみせたのが、「夏目漱石」なのだろうと思う。
「選択の自由」は、また、自己が向かうべき道すじに対しての、「全ての責任」を、彼らの上に、もたらすことになった。
つまり、「成功」も「失敗」も、全ては、自らの「決断」によって生み出されるものであるから、誰にも、その「責任」をなすりつけることは出来ないのだ、という「心境」に、彼らは、結果的に、「追い込まれる」ことになったのだ。
あっという間に、すっかり変化してしまったその環境からは、いったい、何が生まれたのだろうか。。
生まれてしまったもの、、、。
それは、「後悔すること」だった。。
「後悔すること」こそ、実は、「近代的自我」が生み出した「功罪」なのである。
ヨーロッパにおいても、近代に至るまで、おそらく、ひとには、「後悔」というものは、存在していなかったはずなのだ。
全ての「責任」が、属する集団ではなく、「自己自身に帰って来る」と悟ったときに、はじめて、ひとは、「後悔すること」を知ったのである。
ーーあのとき、自分は、何故、あんな選択をしてしまったのだろうか。。
自分で選んでしまったがゆえに、誰にもその「責任」をなすり付けることは出来ない。。
もう、とりかえしのつかないことになってしまったというおもいは、「後悔」となって、「近代的な自我」を持ったひとを、苦しめ続けることになってしまったのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「共同体」から一歩踏み出して、「個人」となり、晴れて「近代的自我」を得た人びとは、開放感とともに、どうしようもない「寄る辺のなさ」を感じはじめたはずである。
何故なら、ひとつひとつの決断について、
ーーほんとうに、これで、大丈夫だろうか。。
という「不安な感情」を、常に、持つことになったからである。
さらには、ひとたび、その決断が、間違いだったと悟るや、ひとは、一様に、「後悔」をし始めてしまうのだ。
そうして、その「後悔」は、ときには、「絶望」さえも、もたらすことが、しだいに、人びとの前に、明らかになっていった。
「絶望」は、「恐ろしい感情」である。
「寄る辺のない個人」にとって、「絶望」は、ときに、「死刑執行人」に化けることさえ、あるからだ。
せっかく、封建的に「支配されること」から、「開放」され、「こころの自由」を手にすることが出来たのに、その「自由」が、「裏」に隠し持っていた「後悔」は、「いのち」さえも奪いかねない「絶望」をも、ひとに与えることになってしまったのだ。
「夏目漱石」が、「朝日新聞」に執筆して発表した「こころ」は、「近代的自我が開放したもの」の「裏」に控えていた「功罪としての後悔」と「絶望」とを、その「テーマ」にしていたのだろう、とわたしは思っている。
それでも、ひとが、今から、「中世のこころ持ち」に戻ることなど、あり得ないし、「近代的自我」が、「こころの自由」のために、必須のものであるという大前提は、今さら、くつがえされることは、ない。
けれども、「近代」がもたらした「功罪」であるところの「後悔」や「不安」や、「絶望」に、ひとは、「現代」となった今でも、まだ、苦しめられているのだ。
いったい、この、「近代の亡霊」であるところの「後悔」を、「攻略」して、ひとのこころを「近代」から解放し、「現代化」することは、出来ないものなのだろうか。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
わたしが生まれたのは、一九五六年
(昭和三十一年)である。
第二次世界大戦の終結から、ようやく、十一年の月日が、経ったところであった。
大人たちは、合言葉のように、
ーーもはや戦後ではない。
などと、言いまくっていたけれど、子どもにさえわかるくらいに、まだまだ、社会は、精神的に、混乱していた。
いわゆる「皇国史観」は、突然の終わりを告げ、アメリカからGHQがやって来て、いきなり導入された「民主主義」と「平等主義」とが、嵐のように、社会を変えて行くことに、大人たちは、「付いて行くだけで精一杯」のように、見えた。
「民主主義」という、目新しい「考えかた」と「制度」とが、突然に、国の外からやって来て、国の在りかたを変えて行ったさまは、「幕府」が倒れて「明治維新」が起こり、極端なほどの「西欧化」が計られて行ったときの、時代の変化のしかたと、どこかしら、似かよっていたかもしれない。
明治期に、一部の先見的な「文学青年」のこころを捉えた「近代的自我」は、第二次世界大戦後に、「民主主義」と「平等主義」とが、一般庶民の生活を変え始めて行ったあたりから、ようやく、社会全体に、「意識」として、定着し始めて行ったのではないだろうか。
何故なら、戦前は、まだ、国民の八割が、農村や漁村に住む第一次産業の従事者であって、厳然たる「共同体」が、まだまだ人びとの「意識」を牛耳っていたから、「個人」とか「こころの自由」などは、一般庶民の「生活感覚」からは、かなり遠いところにあったのではないかなと、思われるからである。
わたしが育った地域は、ある程度の「都市化」が進み、なんとなく「現代的な雰囲気」を醸し出してはいたけれども、それでも、人びとの「こころの感覚」は、かなり「旧態依然」としていて、「共同体」的なものから、あまり、抜け出ていなかったように、わたしには、感じられていた。
育った地域で、「個人」とか、「自己実現」とか言っても、誰にも通じなかったし、
ーーみんなと同じようにしてればいいのに、なんだか難しいことを考えているんだね。
と、わたしは、よく、大人たちから、笑われたからだ。
今から思うと、もう、すでに、「現代」だったはずなのに、わたしは、まるで、明治期の「文学青年」のように、「共同体」的なまわりの人びとから、「浮いていた」ということになる。
あんなにも、「石川啄木」に「共感」出来たのは、時代が違っているにも拘わらず、きっと、「啄木」と「わたし」の「こころの境遇」は、あまり変わっていなかったからなのではないだろうか。
六十年代から七十年代初め頃のわたしは、まるで「明治期の文学青年」のように、「寄る辺のない近代的自我」を手にして、社会との「溝」や「ズレ」を、その身に、受けていたようにも、感じられるのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
間違いなく、自分で選択してきたのだと思えることと、偶然と偶然とが重なって、まるで何ものかに導かれるかのようにして起こってしまったことによって、ここに居るのだなと思えること、とが、どちらも相まって、人生は、形づくられてゆく。
自分で選択してきたことについても、
ーー果たして、ほんとうに、これで良かったのだろうか。
ーー選択しなかった、もう一方の道に進んだわたしのほうが、実は、ほんとうのわたしを活かす道だったのではなかったのか。。
というおもいは、今の境遇を、たとえ、肯定的に捉えることが出来ていたとしても、ふと、もたげる瞬間があることは、否定出来ない。
そんなあやふやで、ふわふわとした、「意識」を、わたしは、いつまで経っても、拭い去ることが出来ないでいた。
おそらく、この「意識」は、生きている限り、消えることはないのかもしれない。
だから、きっと、今だに、ときおり、
ーー全て嘘でした。
と、言いたくなるのだ。
人生のなかで、成し遂げたかったことは、若いころ「野心家」だったわたしには、たくさんたくさんあったからだ。
それでも、ここまでの人生で、成し遂げられたことも、それなりにはあったし、今も、笑うことが出来ていて、健康で、生きているのだから、
ーー決して、後悔したりはしないのだ。
わたしは、そう自分に言い聞かせるようにして、生きて来た。
ーーそれが、きっと、しあわせを感じていられる秘訣のはず。
と、強く、頑なに、信じていた。
それは、「後悔すること」を、「ネガティブなもの」であると捉え、さらに言えば、「しあわせの邪魔をするもの」であると、「認識」していたからである。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
それでも、「後悔すること」については、なぜだか、わたしは、とても気になってしまっていて、ある時期から、ことあるごとに、ずうっと、考え続けて来た。
「後悔」を、さらに、重くとらえ、人生を揺るがすほどの「後悔」について思うとき、それは、もっと強い「意味」を持って、「悔恨」という「言葉」となって、自身に、迫って来る。
二度と戻らない時間。
間違ってしまったかもしれない人生の選択。
四十代だったときのわたしは、ほぼ十年間、自分の人生における「悔恨」と、正面から向き合って、苦しんで苦しんで過ごした。
自分自身を「個人」として「認識」したとき、自分の人生の選択は、果たして正しかったのか、自信を失ない、混乱してしまっていたからだった。
そのときに感じたことは、今も、忘れることは出来ない。
こころに残っていることは、
「愛」が「自我」や「孤独」を救うことはない。
という、厳しい「命題」だった。
「ひとり」で生まれ、「ひとり」で死んでゆく「人間」という存在にとって、傍らに寄り添ってくれる「愛するひと」は、居ないよりは居てくれたほうが、おそらくは、望ましい。
それでも、「愛」は、「孤独」や「悔恨」の「回答」には、ならないのだった。
「悔恨」と向き合うとき、ひとは、どうしても、「孤独」にならざるを得ないのだ。
ほぼ十年間、苦しんだけれど、わたしは、あるとき、どうしてか、その「悔恨」が、わたしのこころのなかから、すうっと抜け出たことを、感じた。
思わず、笑みがこぼれるほど、急に、楽になったのだ。
ーー生きていける。
そう、感じた。そうして、
ーーもう、これ以上、決して、後悔はしない。
そう、誓ったのだった。
その時期のわたしのこころに起こったことは、正直に、さまざまな視点から、書いてきた。
「声の魔法」
「恋心・衝動・きのうのこと」
「パンドラの匣・人生・謎解き・懺悔」
「愛される幸福」と「幻の告白」
「放浪と流転と人生と〜下北沢にて〜」
「表現」を見つめた日々からの離陸〜わたしは書く〜
こんなにも、何度も、書いて来たのに、わたしには、まだ、「見えていないもの」があったことを、わたしは、つい最近、偶然に、知ることになった。
「後悔」について調べているうちに、「哲学」の観点から論じている「文献」に行き当たったことが、そのきっかけであった。
マックス・シェーラーの「悔恨と再生」という論文である。
わたしは、ドイツ語もわからないし、「哲学」についても、「門外漢」だから、この難しい論文は、何度読んでも、まだ、よく理解したとは言えないかもしれない。
それでも、おおまかなことだけは、「理解」出来たように思っている。
シェーラーは、
「悔恨は魂の自己治癒の一形式であり、自己再生の偉大な力である。悔恨を通して人間は、自分の過去の行為の意味と価値を真に支配するのであり、罪を自分の人格の生命的中心から排除することが出来る。」
「悔恨は過去において人間を奴隷のように拘束していた悪の力の足枷から人間を解放する。」
と、述べている。
かなり難しい言い回しだけれども、「悔恨」が、「自己再生の力」である、というところが、大事なポイントである。
シェーラーは、近代哲学は、「悔恨」について、これまで、「誤解」をして来たのだ、と指摘する。
「悔恨」は、これまでは、過去の行為を取り消そうとする、不毛で、無意味な試みであるから、出来るだけ、避けるべきものである、とされて来たのだけれども、シェーラーは、そのことを、見直さなければならない、と主張しているのだ。
さらに、シェーラーは、「時間というもの」についても、独特な見解を持っている。
物理的な出来事が起こる「客観的な時間」は、一方方向に流れ去り、もとに戻ることは、決して、ない。
けれども、シェーラーによれば、その「物理的な時間」とは、また別に、「人間的な時間」というものが、存在しているのである。
それは、川のように、流れ去ってしまうものでは、ない。
「人間的な時間」のなかでは、過去の出来事は、流れ去ることなく、その全てが、現在もなお、そのひとのこころのなかに、存在している。
と、彼は、考えるのだ。
また、
ーー何故、あんなことをしてしまったのだろう。
と、悔いるとき、そのひとは、悔いる出来事を起こしたときのひととは、すでに、別の、精神的次元にいるのだ、と、言う。
もしも、同じ次元に留まっていたとしたら、「悔いることなどは、決して、出来ないはずだ。」と、指摘する。
悔いることをしてしまった次元よりも、より高い精神的次元に居るからこそ、やってしまった自分を、見下ろして、
「あんなことをしてしまった。」
と、悔いることが出来る、というわけだ。
「悔いること」は、自分の過去に侵入して、今の自分とは違う、そのときの自分に対しての「意味づけ」を行なうことである、と、彼は説明する。
さらに、
ーー何故、あんなことをしてしまったのだろう。
という、出来事に対する「悔恨」から、
ーーあんなことをやらかすなんて、自分は、なんという「人間」なのだろう。
と、自分の「人格」にまで分け入って「悔いる」とき、それは、そのひとの「人格」を、さらなる道徳的な高みに、引き上げてゆくのだという。
シェーラーは分析する。
「ひとりぼっち」で、「自分」と向き合い、過去に起った出来事に対して、しっかりと「悔いること」を行なうとき、ひとは、「過去の自分」に対して、「現在の自分」から見た、さまざまな「新しい意味づけ」を行なうことが出来る。
だから、ひとは、「悔いること」によって、生きている限り、その「人格」を、「再生」させ続けてゆくことが、出来るのだ。
「物理的な時間」だけでなく、「人間的な時間」を持っていることによって、ひとは、過去に起こした全ての出来事について、こころのなかで、それらを、完全に「支配」し、「新しい価値」を発見して、「意味づけし直し続けること」が、可能だからである。
と。
「悔やむことを思い止まって、すんでしまったことは、くよくよせずに、将来もっとよくしようと思う」というのではなくて、「悔やみたまえ、そうすればこそ、それゆえ、いっそうよくなれる」というのが正しい指図である。
とシェーラーは、主張する。
「悔恨」は、最初から、「新しい決意」という「設計図」を、すでに、こころのなかに用意している、というのだ。
シェーラーの哲学によれば、「悔恨」は、「絶望」に向かって進んでゆくものではなくて、実は、「希望」へと導くものだったのだ、ということになる。
この「論文」に触れて、わたしは、しだいに、
ーー「後悔」は、怖いものではなかったのだ。
と、思うようになった。
まさに、「コペルニクス的な転回」である。
「共同体」に「埋没」していて、「近代的自我」を持っていなかったときには、抱くことがなかった「後悔すること」は、「近代的自我」がもたらした「功罪」であって、それは、「不安」や「絶望」をも、生んでしまうから、現代になった今でも、「攻略」されていなくて、人びとを苦しめているのだ、と、わたしは、ずうっと、思っていたのだけれど、それは、シェーラーに言わせれば、「真逆なこと」だったのだ。
「後悔すること」自体を、ネガティブなものだと捉えているから、
ーーまた、後悔してしまっている。
と、自分を責めてしまう。
そうして、「不安」になったり、「絶望」してしまったりするのだ。
シェーラーが言っているように、
「後悔すること」は、実は、「ポジティブなことなのだ。」と、捉え直し、「後悔すること」を、「意味のあること」として、しっかりと「後悔すること」に対して向き合えば、ひとは、「近代がもたらした功罪」を、いつの間にか、乗り超えることが出来て、現代的で新しい、ポジティブな「近代的自我」を、手に入れることが、出来るのではないだろうか。
この難しい論文を、何回も読んで、少しずつ理解が出来て来たときに、わたしは、四十代だったときのわたしが、なぜ、「絶望」に取り込まれずに、「新しい設計図」を手に入れることが出来たのか、ちょっぴり、分かったような気がしたのだ。
「共同体」という後ろ盾を失なって、寄る辺のない「近代的自我」という「自由」を手に入れたわたしたちは、「失敗」も、自分自身で引き受けなければならなくなったけれども、「後悔すること」は、もはや、近代的自我の「裏」にある「功罪」ではなくて、「新しい設計図」を手に入れるための「必須アイテム」だったのだということを、シェーラーは、わたしに、教えてくれた。
マックス・シェーラーは、一八七四年に生まれ、一九二八年に亡くなっている。
二十世紀の、最も重要な哲学者である、と言われているわりには、学校で習った記憶も無いし、あまり、語られることも無いように思われるけれども、わたしは、シェーラーのこの考えかたは、「現代の人びとを救うこと」に、大いに寄与するのではないか、と考え始めるようになった。
この考えかたが、もっと、精神医療の中心にあったなら良いのに、とさえ、思う。
「後悔すること」
それは、「とても大切」で、「とてもポジティブなこと」だったのだ。
ーーすべて嘘でした。
という、この、わたしのなかに、ときおり、もたげてくる「衝動的な言葉」も、もしかしたら、これからは、つぶやかずとも、生きていけるかもしれない。。
最近、わたしは、そんなふうに思えるようになったような、そんな、気がしている。
〈 参考文献 〉
※「個人主義の運命」ー近代小説と社会学 作田啓一 岩波新書 一九八一年 十月二十日
※「自尊と懐疑」文芸社会学をめざして 作田啓一 富永茂樹編 筑摩書房
一九八四年 七月三十日
※「個人主義」S・M・ルークス 間 宏監訳 お茶の水書房 一九八一年 四月十日
※「シェーラー著作集6」人間における永遠なるもの(上) 悔恨と再生 白水社
一九七七年 五月一七日
※「人間性の価値を求めて」マックス・シェーラーの倫理思想 アルフォンス・デーケン 阿内正弘訳 春秋社
一九九五年六月二十日第二刷
※「一握の砂」石川啄木
(青空文庫ビューアより)
※ルネ・デカルト Wikipedia
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