山口祝子(やまぐちしゅうこ)

「言葉」で表現しきれないことは、たくさんあります。それでも、「おもい」があふれて、「景色」が浮かぶ文章が書けたら。。といつも願っています。その「願い」のために、日々書き綴っています。

山口祝子(やまぐちしゅうこ)

「言葉」で表現しきれないことは、たくさんあります。それでも、「おもい」があふれて、「景色」が浮かぶ文章が書けたら。。といつも願っています。その「願い」のために、日々書き綴っています。

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わたし・認識の回廊と記憶の迷宮

ーー道に、迷ってしまったのかな。。  気がつくと、わたしは、どこかも分からないところに、たったひとりで、ぽつんと、立っていた。  道に迷っただけではない、のかもしれなかった。  わたしには、自分が、《誰》で、そうして、《どこから来たのか》といったようなことがらが、何ひとつ、思い出せなくなってしまっていたから、だ。  ーーわたしは、わたし。    という、《感覚》だけは、たしかに、はっきりと、《在る》のだけれども、その、肝心な、《わたし》が、いったい《誰》なのか、が、

    • 輝く湖水〜廻る景色と螺旋の地図

         ーーえ。なぜ、「あなた」が、ここにいるの?  ーーこんなところに、隠れていて、そうして、急に出て来て、わたしをびっくりさせるなんて、「あなた」は、ほんとうに、ずるいよ。。  長年の憧れの「天智天皇」が鎮座ましている近江神宮の「時計館」で、何のこころの準備も無いまま、突然に、桃山時代の絵師「海北友松」が描いた「仙人の画」を、見せつけられたわたしは、眼の前の、「画」に向かって、思わず、そう、呟いた。  こころのなかの「古代の庭」を、のんびりと散策していた、それまでの「

      • 「約束の地」と「一枚の水墨画」

         二〇二四年 四月下旬。  その日、わたしは、新幹線で京都駅に降り立ってから、「湖西線」に乗り換え、昨冬とは、また違った場所の「琵琶湖へ」と、向かっていた。  四月生まれの夫は、その少し前に、無事に、六十九歳の誕生日を迎えていた。  いくつかの病いを乗り越え、今も、元気で働いてくれている夫に、こころのなかで、こっそりと、感謝しつつも、わたしは、また、ひとりで、自分のための「約束の地を探す旅」に出ているのだった。  毎年、四月に、夫が誕生日を迎えると、  ーーあと半年

        • 近代的自我の功罪〜後悔と再生と〜

            ※マックス・シェーラーに捧ぐ   ーーすべて「嘘」でした。 とだけ書いた「遺書」を残して、思い切って死んでしまおう。 ーーわたしの人生は、それでおしまい。 ーーみなさん、今まで、ほんとうに、ありがとう。さようなら。     ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※  ーーそれは、無いな。  ポジティブなことだけが取り柄なわたしだから、そんなことは、きっと、やらない。  「決してやらない」のだけれども、それでも、「生きていること」自体を、なんの理由もなく、突然に、「リセ

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        わたし・認識の回廊と記憶の迷宮

          声・靴・はじまり(改訂版)

            #戯曲    舞台中央 独白 スポットライトの下 男はギターを抱えている。 男 「ーー僕はずっと、ある女の子を探している。。君は、いったいどこにいるの?」   (暗転)         ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※    ライブハウスの楽屋 夕方。 男  「僕は、自分で歌を作って、ライブハウスで歌っている。ギター1本で、弾き語っているんだ。人生はうまくいくことばかりじゃない。だから、僕のテーマは、『こころのなかの古い傷痕』や『果たせなかった約束』、そして『今も残

          声・靴・はじまり(改訂版)

          呼ばれた街・約束の街・再会の街

           まだ、わたしが、高校二年生だった、一九七三年の、秋頃のことだ。    たぶん、土曜日の午後。    午前の授業を終えて、お弁当を食べ、学校から帰宅する途中だったと思う。    そのころ仲良しだった友達仲間三人で、わたしは、生まれ育った東北の地方都市で一番に大きな「繁華街」を、歩いていた。  ちょっと前の夏休みに、隣りの県の海岸まで遊びに行った友達メンバーのなかの誰かしら、だったと思う。  欲しかったものの買い物を終え、わたしたちは、お喋りをしながら、ご機嫌に、街を歩い

          呼ばれた街・約束の街・再会の街

          遠い記憶・海からの贈り物・夢

           ずいぶんと幼いころから、わたしは、「日の出」よりも「日の入り」のほうが、ずっと、好きだった。  「日の出」のお日さまは、とても元気一杯で、嬉しそうに、昇ってくるように、感じられる。  ーーさぁ。みんな、お日さまが来ましたよー。  なんだか、あまりにも「前向き」で、強そうな感じがするから、わたしは、どうにも、圧倒されて、なんにも、考えられなくなってしまう。。  からだが、とても弱かったから、かもしれない。  けれども「日の入り」のお日さまは、おだやかで、優しい。なん

          遠い記憶・海からの贈り物・夢

          湖水を覆う雲・秘密・永遠なるもの

           「万葉集」は、我が国最古の「歌集」で、全二十巻、ある。  載せられている「うた」は、四五四〇首もあって、「詠み人」は、「天皇から農民まで」と、大変に、多岐にわたっている。  「うた」の表わされかたは、一見すると、「漢文」のようにも見えるのだけれど、「漢文」ではない。  よく見ると、本来の「漢字」や「熟語」のほかに、「音」や「意味」だけを拝借して、まるで「宛て字」のように使われている「万葉仮名(まんようがな)」というものが、混じっているのだ。  「ひらがな」が生み出さ

          湖水を覆う雲・秘密・永遠なるもの

          哀しみの湖水・むべの実と紅葉の道

            「果物のなかでは、何が、一番好き?」    誰かに、そう聞かれたら、たぶん、わたしは、即座に、 「一番は、グレープフルーツ、かな。」 と、答えるだろう。  何故なら、「グレープフルーツ」は、そんなに、甘くなくて、食べたあと、口のなかに、若干の「苦み」が残るから。。    甘いばかりの果物は、わたしには、なんだか、「つまらない」のだ。    食後に残る、あの「苦味」が、もしかしたら、わたしが、「グレープフルーツ」に惹かれる理由、なのかも、しれない。  わたしが、

          哀しみの湖水・むべの実と紅葉の道

          教会通り・長い長い道と人生の孤独

           荻窪駅北口の、青梅街道を渡ると、少し左手に、北に向かって長く長く続いてゆく、古い「商店街」がある。  通称「教会通り」。  長く長く続いていて、たくさんの小さなお店がひしめき合っている、あの、古い「商店街」は、今も、わたしに、さまざまな「とき」と「おもい」とを、想い起こさせてくれる。。         ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※    一九八七年。十月。  わたしが、あの「長い道」を、よく歩いていた日々は、もう三十六年も前になってしまった。  ひとりでも、何度

          教会通り・長い長い道と人生の孤独

          巡り廻るたましいの記憶・琵琶湖へ

           「なぜ、踊らぬ。。」  しばらくのあいだ、わたしの顔を、まじまじと見つめていたそのひとは、振り絞るような声で、それでいて、静かな、毅然とした言いかたで、そんな言葉を、わたしに向かって、投げかけて来た。 「あなたを見ていると、そんな言葉が、浮かんで来ます。」  もう四十年以上も前、その日初めて会った「祈祷師」のおばあさんから、わたしは、そんな指摘を、受けたのだった。  何度か、生まれ変わりを繰り返している「わたし」は、いつかの世では、「高貴なひと」の前で「踊っていた」

          巡り廻るたましいの記憶・琵琶湖へ

          十四才・わたしの怪しく妖しい衝動

           これまでに経験したことも無い、からだの奥底から突き上げて来るような、どこかしら仄暗く、怪しく妖しい、その「衝動」を、わたしが初めて自覚したのは、十三才くらいのころだったろうか。。  「それ」は、誰とも共有できないような、大変に「個的なもの」で、わたしが生来から抱えている「集団に対する嫌悪」と、どこかしら似ているようにも、感じられた。  そのうえ「それ」は、意識するたびに、「どくん。」という音がして、からだのなかをぐるぐると駆け巡るような、そんな感覚を、わたしにもたらすの

          十四才・わたしの怪しく妖しい衝動

          表現・生活・呼吸・新しき村

           埼玉県内を、北西部に向かって縦断する「八高線」の、「高麗川」と「毛呂山町」のあいだに、「とても小さな踏切」が、ある。  その「踏切」を渡り、直進する。  すると、やがて、何やら文字が刻まれた「木の門」が、見えて来る。  「踏切」は、その場所への、「入口」のようにも、見える。  その「門」には、  「この門に入るものは自己と他人の 生命を尊重しなければならない」 と、刻まれている。  作家「武者小路実篤」の「言葉」だ。  「この門」は、「個人」の「表現による自

          表現・生活・呼吸・新しき村

          「虹をかける」〜二つの戯曲にこめたおもい

           今年、わたしは、二つの戯曲を書くことが出来た。  最初に書いたのは、「声・靴・はじまり」で、二つめは、「らせん階段を昇るとき」である。  「声・靴・はじまり」は、もう、二十年近くも、こころのなかで、温めていたもので、実際に、わたしの身の上に起こった、わたし自身の「生き直し」が、テーマになっている。  わたしにとって「生き直し」とは何だったのか。   何故、「生き直し」が必要だったのか。  さらには、「生き直し」を可能にしたものは、何だったのか。  そういう視点で

          「虹をかける」〜二つの戯曲にこめたおもい

          国木田独歩・その自由恋愛の実体

           わたしは、普段、自分の考えていることを、あまり、ひとには、話さない。  これまでの人生で、こころから共感出来るひととの出会いは、ほとんどなかったし、自分の感覚は、きっと、世間とは、ずいぶん、ズレているんだろうなと、思っているからだ。  こころを許して、ひとと話すことに、あんまり、魅力が持てない。というよりも、違和感しか受け取れない会話に、疲れ果ててしまっていると言ったほうが良い。  根は「正直」だから、「嘘」は、つきたくない。  それでも、面倒だから、つい、思っても

          国木田独歩・その自由恋愛の実体

          「愛される幸福」と「幻の告白」

           「わたしは、おかあさんのこと、世間知らずのお嬢さんだなって思ってるの。おとうさんに愛されてて、おしあわせなことってさ。わたしは、おかあさんのようにはならないつもり。」 「だいたい、おかあさんってさ、自分から、ひとを愛したことってあるの?」 と、長女は、少し切れ気味に、わたしに話しかけて来た。 「自分から、ひとを愛したこと?」 「そうだよ。愛の基本でしょ?自分から、ひとを愛するってこと。愛されているから愛するんじゃなくて、好きで好きで、自分から愛してしまうんだよ、誰か

          「愛される幸福」と「幻の告白」